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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ダンガンロンパ3

未来篇、絶望篇、ともに10話まで。

ゲームで好きだったシリーズがアニメで完結というのはその時点でがっかりなわけだけれども、20話見れるぐらいにはおもしろい。ただ、どうしてこんなに微妙な脚本というか流れになってしまってるんだろうな……と思ってしまう。特に未来篇の10話は強敵が心を変えた重要な瞬間だろうにえ? と思っているうちに終わってしまった。未来/絶望共に、すぐにうわあああああとか絶叫させる演技も指示通りだろうが(というか、ゲームもテキストは絶叫ばっかりだからかもしれないが)あまりにもひどい。

ゲームではないからこその「ゲームではありえないルール破り(未来篇)」にアニメーションだからこそアニメーションが物語のキイになってくる(絶望篇)というのはまあまあそれはそうするだろうなとは思うものの、うーん、今のところ絶望篇は小説で、未来篇はゲームとして構成しておいたほうがよかったんじゃないかなという気がしてしまう。「元・超高校級」という肩書で才能を持った大人たちが出てきた時は「カーニバルだー!(清涼院流水の」と興奮したんだけれども、結局「論破」に中途半端にとらわれて物語の枠組みがゲーム時からそう突破できていない印象である。最後までみたら印象が一変しているといいんだけれども……。

『君の名は。』2回目

あまりにも魂を持っていかれてしまって時間の余裕がないにも関わらず二回目を即観に行ってしまった……。二回も観れば粗も目につくものだが一回目と遜色ないレベルで楽しんでしまった……。なんというか、内容がどうとかいう以前の問題としてほとんど音楽を聞くようにしてこの映画を観てしまっているので、一度観終わった後も「いい曲だった! リピート再生だ!!」状態になってしまっている。すでに内容を知っているかとかもうそんなの関係ないのだ。ひたすらアニメーションの快楽によいしれているのだ。

編集まで含めて自分でやっているからこそなのか、音楽、演技、カットのテンポと頭から尻尾まで一貫した「リズム」に支配されている画がひたすらに気持ちが良い。あ、アニメーションってここまでのコントロールがきかせられるものなんだな……と正直いって驚いてしまったんだよなあ。とはいえ名アニメーターや作画監督の力が画面に充実しているのも確かで、スタジオ・カラーという自前の軍隊を持っている庵野秀明監督と違って新海誠監督が次回作以降もこのレベルで作品をつくっていけるのかという心配があるけれど(キャラデザ、作画監督の両人が変わってしまったらどうなるんだろう……)とにかく、こんな作品が出てきたことを喜ばずにはいられない。『シン・ゴジラ』は3回観に行ってだいぶ満足したし、ガルパンも3回観に行って満足したし、その程度で満足できるだろうなというのは最初からわかっていたのだが、『君の名は。』を何度観に行ったら満足するのかまったく現時点で予測できん……。

『君の名は。』す、すげーー……

『君の名は。』観てきた。

僕は新海誠作品、言の葉の庭と秒速しか観てないので(秒速ははあ……という感じで、言の葉の庭はおもしろかった)本作はわりとフラットに観たと思うけれど、これがもうめちゃくちゃおもしろかったな。恋愛物の単純な「だるさ」をSF設定の導入でドラマに仕立て上げていて、恋愛物としても良いしSF/ファンタジーとしてもよくまとめあげているなと。背景に挿入されれるカット、ド派手でこそはないものの動きの一つ一つが美しく、BGMもあまりにも素晴らしい。映画館で観る価値のある映画だ。

構成にも隙がない。前半でじっくりと入れ替わりの「始動」を描きながら一気に加速させて「入れ替わりに気がついた後の状況」の描写を描くテンポ感と、それでまったくおもしろさが損なわれない画面密度が素晴らしい。正直最初の20分ぐらいだ、大丈夫なのか!? 本当に大丈夫なのか!? と思っていたのだけどそこまでたどり着いたら「ああもう全然だいじょうぶだ! すばらしい!」と絶賛ムードへ切り替わっていた。

そんでもってその「加速」は素晴らしいけれども、え、あとの尺はどうすんの? と思ったら後半からは別のSF設定が導入され男と女は出会いたくとも出会えない。この「出会いたくとも出会えない」というのが僕個人が考える恋愛物としては必須の要素である。好きだという気持ちがありながらも、言えずに日々を過ごしていくみたいな作品は存在しているはずのドラマを薄めて引き延ばしていくうちに別物になってしまう。

「入れ替わり」という要素を活かしているひとつのギミックとして、「都会」と「田舎」で入れ替わりが起こるのも良い。田舎には田舎の「悪さ」が、都会には都会の悪さがあり、同時にそのどちらにも風景的な美しさが存在している。テンポよくその両者を切替て見せていくことで見事なまでに日本の縮図みたいなものを描き出しているように感じたものだ。そうやって丁寧に「入れ替わり」を扱いながら、本作ではゴールを単に「入れ替わりの解決」に置かずに、その先へと駆け抜けてみせた。いやーゴジラに続いてここまで突き詰めた作品がみれるっていうのは本当にこの夏は嬉しかった。

Charlotte 麻枝准の新境地

今更だけどCharlotteを全話観た。

AngelBeatsには非常に楽しませてもらいながらも主人公のあやふやさ、膨大なキャラが出て一人一人の話に迫るアニメというよりギャルゲーの文脈を踏襲していて演出も……と不満点が多かったのもあって、Charlotteは期待しながらも観るのが怖かったものだ。実際、最終話まで放映されてみたら批判も巻き起こっていて「観るの嫌だなあ」と思ってしまったけど、いやあ観てみたらちゃんとABの反省点は活かしているし、全13話で「能力者達の世界の話」をまとめあげていて圧倒的にABより高評価である。傑作といっていいんじゃないかな。

KanonもAIRもCLANNADもたいしてはまらず、リトルバスターズはいいなと思いAngelBeatsも条件付きで良しと後期麻枝准にハマっている身としては大満足の内容であったよ。特に後半の展開についていえばゲームの背景労力的な制約から「箱庭的世界」で展開する作品群から踏み出し「世界」を描こうとする広がりが見えたのも新境地としておもしろかった。全13話では展開が急だと批判が出るのもわかるし(最低限の段取り自体はやっているので僕はここは大きな問題には感じない)スケールのさせ方、描き方に粗があるのは間違いないが、別の言い方をすれば「麻枝准作品として洗練させる余地のある、空白地帯が発見された」ともいえるだろう。

あとはAB以上に画面の密度/満足感が異常に高く楽しませてもらったな。友利奈緒の透明化能力の叙述トリック的な映像演出も良かったし、能力の描き方としては「制限」を笑いにもシリアスにも幅広く用いていて麻枝准っぽい振れ幅の広い作品であった。前半の「能力者たちの日常」パートの登場人物たちが後半ではほぼ絡んでこないところとか、なんとかなったんじゃないかと思うところは無数にあるけれども、総じて大満足ですよ。絵と音楽でここまでトータルに楽しませてもらえば文句はないし、キャラクタも素晴らしい。

わざわざ言及するようなことでもないかもしれないけれど、「奇跡には代償がある、奇跡なしでもやってみせる」っていう筋の通し方も、相変わらず自己言及性の高い内容でよかったですね。こういっちゃあなんだけど、ボロボロになって狂いそうになっていく主人公はほとんど麻枝准だったかと。

惜しむらくは、今後またPAと組んで麻枝准が脚本を書くことはなさそうだなあ……というところか。ABよりも作品のバランスでは(ある面では。たとえばギャグの振れ幅としてはABの方が良かっただろうな)良くなっているし、未開拓の新境地もみせてもらったし、次の作品はもっとよくなるはずという確信はあるのだけど、それによって売上が上がるとは限らないのが面倒臭いところである。こういうタイプのオリジナルアニメ作品の脚本をつくれる作家は他に居ないんだから、願わくば次作がみたいところだ……。

何が受け入れられなかったのか

マフィアなり突如のテロ組織の文脈が唐突で受け入れられなかった側面があるのだろうなとは思う。ABのゲームを前提としたようなシナリオと違って、今回は映像的な演出を最初から取り入れた洗練されたシナリオになっている一方、一人称に寄って演出をする癖がまだ抜け切れていなかったのかなと。

三人称のカメラで進行する物語に反して、情報は極端に主人公に寄った形で記述されていくから、マフィアもテロ組織もそれまで彼の意識の中には存在しない文脈が突如、兄や兄の組織の人間と関わることによって挿入されることになる。この「突然の変調」部分は一人称的な文脈で言えばそう違和感はない=主人公と読者はシンクロしているから、唐突な展開に驚く主人公と一緒になって驚くことができる。だけどあくまでも第三者としてアニメを観ている視聴者からすれば違和感はある。

尺が足りないというコメントをいくつかみたけれども、僕はこの作品で尺が足りないってことは全然なかったと思う。最後の世界偏歴も、アレ以上長くやったってしょうがない部分で、2話もやられたらたまったもんじゃない。前半の野球回など無駄だったといわれる回もあるし、あれがなくても別の部分での吸収合併が可能だという点には同意する。一方で、僕はその点には同意をするが、野球は壊れていく日常を演出するための「日常回」であって、削って削って削りきればいい=日常回を起点となる1,2,3,4話でまとめてしまってもよかったかといえばそうではない=後半の展開への落差に楽さがなくなってしまうので「なくてよかった」には同意しない。アニメにおける普通の構成とは違うが、二幕構成としては真っ当な内容だというのが僕の考えである。

ではなぜ尺が足りないという意見が出てくるのか? 尺が足りないと言っているやつらはバカなのか? といえば、それもまた違うと思う。尺が足りないというよりかは、実質的に発生しているのは観ていくうえで明らかな「段取り不足」である。なぜ突然マフィアが? 突然テロ組織が? 主人公が突然世界を周るのは? 日本の組織は彼を助けるまで何をしていたのか? 無数の細やかな段取り不足が積み重なって、「あれもこれも説明されずに唐突だ」という印象になって、それが結果的に「もっと描写されていれば」という不満点=尺が足りない、になっているのではないだろうか。尺の問題ではなく、尺の配分の問題である。

僕はアニメでありながらもほとんど途中から小説のようにして(特に7話からは)観て/読んでいたから、突如現れたマフィアやテロ組織は「そういうことも当然あるだろうな=組織と繋がることによって主人公の世界観はそれまでの学校の世界から広がったんだな」と自然と受け入れてしまったし、最後の世界偏歴も、日本側で何をやっていたのかの描写を入れることは出来たはずなのだが(少なくとも断片的に入れることはできたはず)本作はそこで「両方を描く」ということはやらず、主人公の視点にシンクロさせて進めた判断を支持する。

それまでいくらでも伏線としてははりようがあったそうした情報を「隠し」唐突に各種描写をはさみこんだのは意図的なものなんだと僕は思う。だけどまあ、どうしてもすべてが客観的な絵として画面にあらわれてしまうアニメーションとしてはそうした手法は端的によくなかったんだろう。僕はここについて「尺が足りなかった」とは批判しないものの、「アニメとしての描き方ではなかったのでは?」という批判の仕方ならありなのかなと思った。まあそれはそれとして僕は大変楽しませてもらったから、それでいい話ではある。

ヘルシングOVA

AbemaTVでやっていたのでOVAの全10巻をぜんぶみた。

観るのは二度目だが、やっぱりおもしろいなと思った。『シン・ゴジラ』のおもしろさもだけど、「崩壊のおもしろさ」というものがある。それも個人が、とかじゃなく、街が、国が、人が、渾然一体となって混沌として崩壊していくさまが愉快である。ただ、それは簡単に成し遂げられるものではなく、それなりに基盤がなくてはならない。

なぜ破壊されなければならないのか、抵抗はどのように行われるのか、抵抗が行われないとしたら、なぜ行われないのか。それをいかにして「大規模に」行うのか。終戦間もないころ、冷戦の恐怖がまだ残っている時代なら世界を二分割したり三分割したりして闘争させる物語も描きやすかったろうが、現代ではなかなか「世界をまるごと巻き込んだ闘争」みたいなものは「なぜそうなるのか」という部分を描きづらいように思う。どうしてもテロみたいな形にならざるを得ず、そうなるとどうしても局所的な話の連続になっちゃうんだよなあ。まあ、ヘルシングも少数派による破壊という意味ではほとんどテロみたいなものだが。

そのへんは、屍人の軍団、自身の中に数百万の軍隊を抱えているアーカード、身体が再生する擬似的な不死軍団と少数であってもまるで多数のように振る舞えるユニットが揃っていたから──のも、主要な面子と因縁はごく少なく話の決着がつけやすいわりに「規模感」が出る要因といえるだろう。もっといろんなパターンの「世界をまるごとどうにかしてやろうとする人間」が出てくる話が読みたいものだなと思う。これってようはMGSとか『虐殺器官』とか『ハーモニー』の系譜だと思うんだけどなあ。

Web 胎界主がおもしろかった

www.taikaisyu.com
Web漫画の胎界主がかなりおもしろい漫画であった。

もうすぐ二部が完結するのでがっつりと「基本読書」の方で書こうかなとも思ったが、胎界主自体膨大な分量なので感想を書くにしても裏をとったりするのに時間と手間がかかるのもあって微妙でためらっている(僕は相当遅れてきた読者で紹介も何もないし)。あとで書くにしろ書かないにしろ、参考にできるように裏取りなどは特にしない初見感想みたいなものはここでざっと書いてしまおう。

生体金庫戦というのが傑作だというから、せめてそこまでは読もうと思って読み始めたのだが、だいぶ読み進めた後にその生体金庫戦は現在最新エピソードの一つ手前のものであることに気がついた。たしかに生体金庫戦は傑作といっていい内容なのだが、そこにたどり着くまでには結構な分量を読まないといけないことを後に知ったのはしょうじき助かった。

何しろ序盤はえらく読みにくいのだ。Web漫画だから右から読むべきか左から読むべきかわからない上に、通常のページサイズとは異なるのでコマ割りがやけに複雑である。設定もわかりやすいわけではなく、独特な世界観が読み進める毎に断片的に明らかになっていく。主人公は主体的な存在ではなく完全な巻き込まれ型で、キャラがつかみにくい──が、第一部の後半あたりからコマ数が減って驚くほど読みやすくなり、それにともなって世界の有り様も把握されてきて俄然おもしろくなってくる。

第一部を読み終える頃には「なかなかおもしろいなあ」という感想で、第二部を読み始めると「生体金庫戦」とそれ以後のクライマックスへと向けた「大きな流れ」が提示されそこまでいくともう完全にハマってしまっている。なのでもし読んだことがなく興味があるのであれば、せめて第二部のはじめぐらいまでは読んでみるといいだろう。

分類としてはある種の能力バトルというか、異世界ファンタジーに分類できる。超人的な能力を発揮する者達がおり、人間、悪魔、魔王、バンシー、妖精、神獣、ヴァンパイアなどなど無数の種族と勢力が入り乱れそれぞれの主導権をめぐって争ったり支配下におかれたりしている。第一部時点ではその大きな流れは見えづらかったが、第二部以後「ピュア」という大きな力と目的を持つ存在によって主人公であるところの稀男くんらが嫌でも巻き込まれていくのがおもしろい。

おもしろいところはいくつもあるのだが、あえて一つあげるならば「メタい」ところかもしれない。そこがおもしろいというか、そこを起点としていろいろ広がっていくのだ。たとえば稀男ともう一人の主人公であるといえるピュアが持っている特別な力は「運ぶ力」といって確率コントロール能力(サイコロをすべて任意の数を出したり)である。

この能力ってようは「無数の選択肢の中から、自分の望むあらすじを選び取っていく者」ってこととほとんど同義なんだよね。確率操作でおおまかに運命をコントロールできるんだから。つまるところ、この世界における「運ぶ力」の持ち主っていうのは一種のストーリーテラーでもある。それは作中にも認識している者がいる。たとえばピュアの近くにいる側近で自覚的な人間の一人は「自分がピュアの描くストーリーの中で重要な立ち位置をになっているうちは、自分はまだ死ぬことはないはず」と非常に「自分は物語の中の一登場人物である」というメタ的な思考をして戦略を練っているんだよね。

その力をピュアと稀男のどちらかしか持っていないのであれば擬似的な「作者」のように振る舞えるのかもしれないが、そうではない。同じ力を持っている稀男とピュアの場合は、いわば「どちらがストーリーの主導権をにぎるのか」というメタな書き換え合戦を行っているともいえる。これをおもしろくしているのは、稀男やピュアであっても蓋然性のからまない事態=必然的に発生する事態は絶対に書き換えようがないってことであって、つまりふたりとも事象を絶対的に思い通りにすることができるわけではない。

彼らはどちらも勝利が確約された単純な主人公ではないからこそ、稀男も自分の目的を達成するために必死だし、事実上のラスボスのようになっているピュアもまたそれ以上に必死である。彼ら以外の登場人物もまた、自身がストーリーの中の脇役でしかないことに自覚的であったり、あるいは「描かれたストーリーの中心人物=主人公である」ことに気がついて必死になっていく。「登場人物一人一人が主役級であること」というのは優れたキャラ構築の一例であるが、メタ的に登場人物自身にそれを言わせること=自分は主人公だ、でよりキャラが立っていく。

それがもっとも表出するのが生体金庫戦で、これはいってみれば「ゴジラみたいなすごい巨大な異世界生物と、異世界群体が真っ向からぶつかり合う話」というだけの話である。無数の異世界群体が、さまざまな手管を使って生体金庫に攻撃を仕掛けるのだが、圧倒的な能力差によって(硬い、でかい、再生能力がある、攻撃への耐性獲得能力がある、当たっただけで即死さえる広範囲マップ攻撃がある、それも何度も使える)全軍が壊滅状態へと追い込まれていく。ガンガンと勢力が死滅していく「巨大生物に蹂躙されていく描写」は綿密でそれをみていくだけで死ぬほどおもしろい。

「胎界主」という作品からすれば脇役にすぎない無数の登場人物たちが、死にたくない、あるいは自身の目的のために命を賭して生体金庫攻略に向かっていく、その中で彼らは紛うことなく「ピュアがストーリーメイクした作中作」での主役である。この話のおもしろいところは「胎界主」の主人公サイドであるピュアと稀男は戦闘に直接的には関与していないことで、「生体金庫が倒せようが倒せなかろうが、物語の行末が変わるだけで終わるわけではない」ことが明確になっていること=生体金庫戦の結末が読めないところ にある。たとえ失敗してもピュアは「ああ、失敗してしまったな」といって次の手をうことがわかっているだけに、常に「こいつらは本当に滅亡するかもしれない」という緊張感があるのだ。

まとめると、「運ぶ力」という蓋然性操作能力と、ここでは説明してないけど原典と翻訳という世界の根本構造そのものがこの世界をメタ的にし、それが故に登場人物は「自分が登場人物である、ストーリーの流れの中にいること」に自覚的となり、みながみな「自分こそが物語を創り上げていくのだ」と主体的な行動を起こしていく。生体金庫戦もおもしろかったが、生体金庫戦後にはまったく別種の戦いがはじまり、そこでは生体金庫戦でメインの役割を果たした者達は「役割を終えたもの」として登場人物自身が自覚的に物語から退場していく。ただ単にメタなだけでなく、世界の根本構造それ自体が、作品に対してメタであることを要請していることからくる「必然的なメタフィクション」のおもしろさがこの胎界主にはある。

ざっくりと書いただけだからかなり粗と間違いがありそうだけど叩き台としてはこんなもんで。原典と翻訳の話までしてるとごちゃごちゃして長くなるしね。

俺は、俺が『甲鉄城のカバネリ』

非常に手ざわりの良い作品であった。

正直言って、このレベルでまとめることができたこと自体が奇跡的な事象だ。4話時点での高まりすぎた期待値を超えてはいない(話が思いのほか小さなところで収束してしまった)、というのはあるけれど、「WIT STUDIOが、12話の、オリジナルなアニメーション製作をする」という枠組みの中でスタッフは最大限の仕事をしたといえるのではなかろうか。アニメーションとして素晴らしいし、特に最終話は良い。

「俺は」とか「俺が」からはじまるセリフが1話時点から非常に強調されており、「俺=生駒が何をするのか」にフォーカスを当てた作品であるからには、このオチで違和感はないというのもある。構成としても無駄がなく、美しい。「できる資源の中でできることをやるプロの技を観た」というのが総評なのは変わらず。もちろん、「もっとこういう形の甲鉄城のカバネリが観てみたい」というのはあれど、それはまたWIT STUDIOや荒木監督の次回作でみせてもらいたいところだ。