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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ヘルシングOVA

AbemaTVでやっていたのでOVAの全10巻をぜんぶみた。

観るのは二度目だが、やっぱりおもしろいなと思った。『シン・ゴジラ』のおもしろさもだけど、「崩壊のおもしろさ」というものがある。それも個人が、とかじゃなく、街が、国が、人が、渾然一体となって混沌として崩壊していくさまが愉快である。ただ、それは簡単に成し遂げられるものではなく、それなりに基盤がなくてはならない。

なぜ破壊されなければならないのか、抵抗はどのように行われるのか、抵抗が行われないとしたら、なぜ行われないのか。それをいかにして「大規模に」行うのか。終戦間もないころ、冷戦の恐怖がまだ残っている時代なら世界を二分割したり三分割したりして闘争させる物語も描きやすかったろうが、現代ではなかなか「世界をまるごと巻き込んだ闘争」みたいなものは「なぜそうなるのか」という部分を描きづらいように思う。どうしてもテロみたいな形にならざるを得ず、そうなるとどうしても局所的な話の連続になっちゃうんだよなあ。まあ、ヘルシングも少数派による破壊という意味ではほとんどテロみたいなものだが。

そのへんは、屍人の軍団、自身の中に数百万の軍隊を抱えているアーカード、身体が再生する擬似的な不死軍団と少数であってもまるで多数のように振る舞えるユニットが揃っていたから──のも、主要な面子と因縁はごく少なく話の決着がつけやすいわりに「規模感」が出る要因といえるだろう。もっといろんなパターンの「世界をまるごとどうにかしてやろうとする人間」が出てくる話が読みたいものだなと思う。これってようはMGSとか『虐殺器官』とか『ハーモニー』の系譜だと思うんだけどなあ。

Web 胎界主がおもしろかった

www.taikaisyu.com
Web漫画の胎界主がかなりおもしろい漫画であった。

もうすぐ二部が完結するのでがっつりと「基本読書」の方で書こうかなとも思ったが、胎界主自体膨大な分量なので感想を書くにしても裏をとったりするのに時間と手間がかかるのもあって微妙でためらっている(僕は相当遅れてきた読者で紹介も何もないし)。あとで書くにしろ書かないにしろ、参考にできるように裏取りなどは特にしない初見感想みたいなものはここでざっと書いてしまおう。

生体金庫戦というのが傑作だというから、せめてそこまでは読もうと思って読み始めたのだが、だいぶ読み進めた後にその生体金庫戦は現在最新エピソードの一つ手前のものであることに気がついた。たしかに生体金庫戦は傑作といっていい内容なのだが、そこにたどり着くまでには結構な分量を読まないといけないことを後に知ったのはしょうじき助かった。

何しろ序盤はえらく読みにくいのだ。Web漫画だから右から読むべきか左から読むべきかわからない上に、通常のページサイズとは異なるのでコマ割りがやけに複雑である。設定もわかりやすいわけではなく、独特な世界観が読み進める毎に断片的に明らかになっていく。主人公は主体的な存在ではなく完全な巻き込まれ型で、キャラがつかみにくい──が、第一部の後半あたりからコマ数が減って驚くほど読みやすくなり、それにともなって世界の有り様も把握されてきて俄然おもしろくなってくる。

第一部を読み終える頃には「なかなかおもしろいなあ」という感想で、第二部を読み始めると「生体金庫戦」とそれ以後のクライマックスへと向けた「大きな流れ」が提示されそこまでいくともう完全にハマってしまっている。なのでもし読んだことがなく興味があるのであれば、せめて第二部のはじめぐらいまでは読んでみるといいだろう。

分類としてはある種の能力バトルというか、異世界ファンタジーに分類できる。超人的な能力を発揮する者達がおり、人間、悪魔、魔王、バンシー、妖精、神獣、ヴァンパイアなどなど無数の種族と勢力が入り乱れそれぞれの主導権をめぐって争ったり支配下におかれたりしている。第一部時点ではその大きな流れは見えづらかったが、第二部以後「ピュア」という大きな力と目的を持つ存在によって主人公であるところの稀男くんらが嫌でも巻き込まれていくのがおもしろい。

おもしろいところはいくつもあるのだが、あえて一つあげるならば「メタい」ところかもしれない。そこがおもしろいというか、そこを起点としていろいろ広がっていくのだ。たとえば稀男ともう一人の主人公であるといえるピュアが持っている特別な力は「運ぶ力」といって確率コントロール能力(サイコロをすべて任意の数を出したり)である。

この能力ってようは「無数の選択肢の中から、自分の望むあらすじを選び取っていく者」ってこととほとんど同義なんだよね。確率操作でおおまかに運命をコントロールできるんだから。つまるところ、この世界における「運ぶ力」の持ち主っていうのは一種のストーリーテラーでもある。それは作中にも認識している者がいる。たとえばピュアの近くにいる側近で自覚的な人間の一人は「自分がピュアの描くストーリーの中で重要な立ち位置をになっているうちは、自分はまだ死ぬことはないはず」と非常に「自分は物語の中の一登場人物である」というメタ的な思考をして戦略を練っているんだよね。

その力をピュアと稀男のどちらかしか持っていないのであれば擬似的な「作者」のように振る舞えるのかもしれないが、そうではない。同じ力を持っている稀男とピュアの場合は、いわば「どちらがストーリーの主導権をにぎるのか」というメタな書き換え合戦を行っているともいえる。これをおもしろくしているのは、稀男やピュアであっても蓋然性のからまない事態=必然的に発生する事態は絶対に書き換えようがないってことであって、つまりふたりとも事象を絶対的に思い通りにすることができるわけではない。

彼らはどちらも勝利が確約された単純な主人公ではないからこそ、稀男も自分の目的を達成するために必死だし、事実上のラスボスのようになっているピュアもまたそれ以上に必死である。彼ら以外の登場人物もまた、自身がストーリーの中の脇役でしかないことに自覚的であったり、あるいは「描かれたストーリーの中心人物=主人公である」ことに気がついて必死になっていく。「登場人物一人一人が主役級であること」というのは優れたキャラ構築の一例であるが、メタ的に登場人物自身にそれを言わせること=自分は主人公だ、でよりキャラが立っていく。

それがもっとも表出するのが生体金庫戦で、これはいってみれば「ゴジラみたいなすごい巨大な異世界生物と、異世界群体が真っ向からぶつかり合う話」というだけの話である。無数の異世界群体が、さまざまな手管を使って生体金庫に攻撃を仕掛けるのだが、圧倒的な能力差によって(硬い、でかい、再生能力がある、攻撃への耐性獲得能力がある、当たっただけで即死さえる広範囲マップ攻撃がある、それも何度も使える)全軍が壊滅状態へと追い込まれていく。ガンガンと勢力が死滅していく「巨大生物に蹂躙されていく描写」は綿密でそれをみていくだけで死ぬほどおもしろい。

「胎界主」という作品からすれば脇役にすぎない無数の登場人物たちが、死にたくない、あるいは自身の目的のために命を賭して生体金庫攻略に向かっていく、その中で彼らは紛うことなく「ピュアがストーリーメイクした作中作」での主役である。この話のおもしろいところは「胎界主」の主人公サイドであるピュアと稀男は戦闘に直接的には関与していないことで、「生体金庫が倒せようが倒せなかろうが、物語の行末が変わるだけで終わるわけではない」ことが明確になっていること=生体金庫戦の結末が読めないところ にある。たとえ失敗してもピュアは「ああ、失敗してしまったな」といって次の手をうことがわかっているだけに、常に「こいつらは本当に滅亡するかもしれない」という緊張感があるのだ。

まとめると、「運ぶ力」という蓋然性操作能力と、ここでは説明してないけど原典と翻訳という世界の根本構造そのものがこの世界をメタ的にし、それが故に登場人物は「自分が登場人物である、ストーリーの流れの中にいること」に自覚的となり、みながみな「自分こそが物語を創り上げていくのだ」と主体的な行動を起こしていく。生体金庫戦もおもしろかったが、生体金庫戦後にはまったく別種の戦いがはじまり、そこでは生体金庫戦でメインの役割を果たした者達は「役割を終えたもの」として登場人物自身が自覚的に物語から退場していく。ただ単にメタなだけでなく、世界の根本構造それ自体が、作品に対してメタであることを要請していることからくる「必然的なメタフィクション」のおもしろさがこの胎界主にはある。

ざっくりと書いただけだからかなり粗と間違いがありそうだけど叩き台としてはこんなもんで。原典と翻訳の話までしてるとごちゃごちゃして長くなるしね。

俺は、俺が『甲鉄城のカバネリ』

非常に手ざわりの良い作品であった。

正直言って、このレベルでまとめることができたこと自体が奇跡的な事象だ。4話時点での高まりすぎた期待値を超えてはいない(話が思いのほか小さなところで収束してしまった)、というのはあるけれど、「WIT STUDIOが、12話の、オリジナルなアニメーション製作をする」という枠組みの中でスタッフは最大限の仕事をしたといえるのではなかろうか。アニメーションとして素晴らしいし、特に最終話は良い。

「俺は」とか「俺が」からはじまるセリフが1話時点から非常に強調されており、「俺=生駒が何をするのか」にフォーカスを当てた作品であるからには、このオチで違和感はないというのもある。構成としても無駄がなく、美しい。「できる資源の中でできることをやるプロの技を観た」というのが総評なのは変わらず。もちろん、「もっとこういう形の甲鉄城のカバネリが観てみたい」というのはあれど、それはまたWIT STUDIOや荒木監督の次回作でみせてもらいたいところだ。

何に時間がかかっているのか

結局800字の原稿はあのあとすこし粘って仕上げたのだけど、総作業時間でいうと8時間ぐらいかかっていたような気がする。800字に8時間だと、ちょっと効率があんまりよろしくないですね。

何にそんなに時間がかかっているのか考えてみると、ようは各種調整に時間がかかっていることがわかる。さらさらさらーと全体で1000字ぐらいでいったん書くところまでは1時間もかからない。その後規定の文字数におさめる為に書いた内容を削ったり、意味が伝わりにくい部分をどうやったら誤解なく伝わるかを考えて直していくわけであるが、そこで時間がかかる。

ブログを書くのに時間がかからないのは削る必要がないからで、ここはちょっと誤解を生みそうだぞ、とかもっと説明があったほうがいいなと思った部分はいくらでも継ぎ足せる。が、文字数が決まっていると誤解を生みそうだぞ、というところを限られた文字数で誤解ができるかぎり発生しないようにしなければならなくて、おそらくはこの部分の技術をまったく養ってこなかったから時間がかかってしまうんだろう。最後に至っては4段落ぐらいに分けられた文章の、3段落めがちょっと繋がりがおかしいな……と思ってそこの200字たらずを順番を入れ替えたり表現を変えたりして1時間以上いじってたし、うーんなんともいえない。

800字だからどうこうというか、1400文字でも3000文字でも基本的には同じ問題が発生しているように思う。非常に細かい部分の技術的な話というか、こればっかりは何度も書いて慣れていくしかないんだろうな。

1000字

800文字ぐらいの原稿だから30分ぐらいで書けるやろ笑 と思っていたら何時間ものたうち回っている。

1000字の原稿だから3000字の原稿の3分の1で済むわけではないというのは今まで何度も味わっているはずなのに学習しない! というより、短い文字数で表現しなければならない以上より情報を凝縮する必要があるのでかなり難しい。最近ブログの文字数が減っているが(前は平均で3000文字以上書いてたけど、最近は2000〜2500ぐらいが多い)、毎日毎日文字数を減らすことばっかり(依頼された文字数の中におさめるように)考えているからである。かなり下手くそだけど……

ゾンビ物の結末

甲鉄城のカバネリを10話まで観た。

いわゆるゾンビ物は結末の付け方が難しいよなと思う。パターンが少ないというか。1.なんとかこの世界で頑張っていきますよルート(防衛拠点をつくったり、なんらかの「前進」をみせておわる俺達の戦いはこれからだルート)。2.治療薬を発見しましたよルート(ゾンビを根絶しましたよルート)。3.それ以外のルートを発見しましたよルートぐらいじゃなかろうか。最近だと『パンドラの少女』は3のルートで新しい部分をみせてくれておもしろかったけど、カバネリはどうだろうなあ。10話までの感じではわりとこじんまりとしたところで集結してしまいそうな感がある。できればそうなってほしくはないなとおもいつつ。

続・シナリオのコスト

ちょっと前にシナリオのコストという記事を書いたが、要約すれば「絵をつけるコストに比べればシナリオを直すコストの方がずっと安いのだから、工程からいえばシナリオを盤石のものにしてから絵に進むべきで、それなのにアニメでもゲームでも「シナリオがいいのに絵が(プログラムが)ダメだ、という作品」よりも「絵がいいのにシナリオがヒドイ」という作品の方が多いように見えるのはなぜなんだろう? という疑問が言いたかったのであった。

それとはまったく無関係にユリイカの魔法少女まどか☆マギカ特集号を読んでいたら、虚淵玄さんと田中ロミオさんが対談していて、そこでアニメの脚本の進め方が語られていて「ああなるほどなあ」と思う部分があった。ようはアニメ脚本家はライターから半歩以上踏み出した、監督へのインタビュアーのそれに近いと。監督の撮りたい映像があって、それをみんなが支えていく。

いかに人とうまくやるのか、単にうまくやるだけじゃなくて、相手が抱いているイメージを察してそれを実現するように書くというプラスアルファが必要なんだと。だからこそ重要なのは現場をどれだけ理解しているかで、アニメの制作進行の人が脚本家になる──なんてことが起こる。話そのものに問題がなくても30分以内に収まらない、予算が厳しいとかそういう事情によってもリテイクがきて、ようは「調整の世界」なんだと。でもまどか☆マギカは例外的にそうした合議制をとらずに、「全然アニメを知らない人間に書かせて突飛なものが上がってきたのを絵に起こせればそれは新しい映像になるだろう」と放置されていたようだ。

もちろんここで語られているのが全ての現場で行われているわけではないだろうが(実際まどマギは違うやり方をとったわけだし)、「そんなやり方でやってたらまともな脚本にするのは難しいだろうな」と思わないわけにはいかなかったなあ。