基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

春アニメ

一話をみた。いちばん期待しているのは野崎まど脚本の『正解するカド』

Re:CREATORS

異世界っぽいところからきたファンタジック人間が、現実にきて現地の人間とここはどこなんだーぶっ殺すぞーみたいなかったるいやりとりを一話で時間をかけてやっていててかなりうんざりした。こんなんで大丈夫か……2話は見る予定なし。

サクラクエスト

町起こしアニメなんだろうか……。題材の時点で惹かれず、キャラも特に……(髪がピンクで就活とかやられても困るし……)2話は見る予定なし。

正解するカド

一話時点ではさっぱり判断つかないが第0話(話はまったく動き出さない、前提となるエピソード)からはじまる構成がしっかりと話をつくっていくぞという宣言のようでなかなかおもしろい。少なくとももう少し見る。

ほかなんかみようかなあ。

慣れてきた

さすがに3年近く雑誌や新聞で原稿を書いているといくらか慣れてきた。

ブログだけでも10年書いているが文字数の制限がある媒体だとかってが全然違うので、そんだけ時間がかかってしまったのだろう(僕が単に下手なのもあるけど)。340字、800字、1400字、2800字とそれぞれ依頼される文章量が違えばそれぞれ必要とされるテクニックも違ってくる。情報量を圧縮し、無駄な言い回しを避け、何について書けばいいのか、という判断をする基準が自分の中にできてきたのだ。

この文章を圧縮し、無駄な言い回しを避けるテクニックって、どうにも言語化しづらい。ぱっと文章を読めば具体的に指摘することは容易いのだが、普遍的な法則として抜き出そうとするとどうだろうなあ……。意味が同じことをいってしまっている箇所は取り除くとか、過剰な装飾や取り除いてしまっても文意と文章のリズムが変わらない部分は取り除くとかいえるけど、結局重要なのはその判断(何が無駄で、何が過剰な装飾で、何がリズムなのか)を的確にすることでそれが難しい。ここはもう経験知の部分だろう。

あと雑誌で書き始めて僕がわかってなかったなと思ったのは、ブログだとそれを観ている人は検索できるわけだから、情報をある程度放り投げられるんだよね。著者は○○さんです、で終わらせても、興味を引けたら勝手にその人はググるでしょ、と判断しても問題ないわけで。でも雑誌だとそういう前提(にしてもいいこともあるけど)はあまり使わずに、紙面で完結するように情報を組み立てる必要がある。最初は雑誌でも興味さえ惹ければ読者は勝手にググるんだから余計な情報はできるだけ省きたいと思っていたけれども、最近はそうでもないのかねと考えるようになった。

他にもいくつかブロガーが原稿書く上でのつっかかったところがあるけれど、いずれまとめてみよう。

行動力

僕は決して行動力(何かをやりたい/やってみたいと思った時にそれを実行にうつす頻度の高低ぐらいの意味)が高い方の人間ではないから、行動力のある人間には憧れているところもある。ビジネス書とかでは特にそうだけど、書いてあることはほとんど変わらなかったりするので、後は実行するか否かしか成功可否を決めることはない、みたいなことが結構ある。そこででもああいう問題が、こんな欠点が──とためらっているとできないわけなので、そこで実行してしまえると強い。

身の回りでもなんか一冊二冊起業の本を読んですぐに起業してしまう人とかがいて、おお凄いな──と思ってみているのだが、やっぱり1年間ぐらいで会社を潰していたりする(最近も一人いた)。というより「そりゃ無理じゃろ」みたいな状態で起業して目当てにしていた事業が案の定潰れて立ち行かなくなったりなので当然の結末といえる。もちろん本人はショックを受けているし借金だって背負っているパターンもあるしでなかなか大変だなと思うわけではあるが、それはそれで経験のひとつだし、続けていけば成功する目もあるかもしれない。

そういう時に思うのは「この人の横に、ちゃんとした行動力のない石橋を叩いて渡るタイプの人間がいればまた結果は違ったのかもしれないな」ということと、行動力が高いのはいいけどその場合でも最低限のリスクヘッジをしておかないとまったく意味がなくなってしまうな、ということで、別に何も珍しいことをでもなんでもないのだけどそういう基本が大事だなと思うのであった。まあ、借金しまくって会社が潰れたらもう終わりですみたいなのはやっぱり無意味だよね。起業がどうとかに関わらず重要なのはうまいこと失敗する方法、失敗を最大効率で次に活かす方法なんだけど"うまい失敗の仕方"はあんまりノウハウとして広まっていないようにも思う。

生活をルーチンワーク化している

生活のすべての部分をきっちり決めておきたいという欲求が強い。

何時に起きて何時に寝るのか。朝ごはん、昼ごはん、夜ご飯には何を食べるのか。ドレッシングは何を使うのか。トイレに行く時間/回数は何回か。何時にコーヒーを飲んで、何時にお茶を飲むのか。何時から何時まで遊ぶのか。何を着るのか。そういったことが全部決めておきたくて、実際いま上げた項目はほぼすべて決まっているものになる。

毎朝、毎昼、毎夜まったく同じものを食べているので人からすると食べる楽しみがない、いろんなものを食べればいいじゃないかと言われることもあるのだが、美味しいとわかっているものを食べているわけであってそこに冒険は必要ないと思ってしまう。仮に冒険が必要ならば金曜日はルーチンから外れる、というルーチンから外れるルーチンを組めばいいだけの話で、結局のところ冒険まで含めたすべてを決めたいことに変わりはない。

すべてを決めていると良いのは日常の中で必要な判断が減ることだろう。今日は何を食べよう、今日は何を着よう、飲み物は何を飲もう、といったことに一切思考を使わないので、オートで実行できる。人間は一日のうちに”判断”に使える思考力は決まっているという実験もあるから、出来る限り判断が必要な行為はあらかじめ決めておくのは理にかなっている。

逆に問題があるとすれば、突発的な誘いにとても弱いことだろう。十年以上付き合いのある友人であっても「今日飲みに行こう」といわれても行く気力が湧いてこない。最低でも1週間前に言ってもらえないとこういうルーチン人間は対応できないのである。いやもちろん行くことはできるのだが、自分が組んだルーチンから外れることに凄く強いストレスがかかるので断ってしまうことが多い。

たぶん、いろいろ試したい人であったり、フットワーク軽く「今日飲みにいこうぜ!」と予定を変えられてしまう人は僕とはまったく違う考え方をしているんだろうな〜と思う。

炎上を防ぐ/正しさを優先する

ネットで炎上を防ぐにはいくつかの方法があるわけだが(炎上しやすいネタがあるし、言い方によってもぜんぜん違う)、燃えかけた/書かれたものに対する疑義が提起された時にとっとと全面的に謝ってしまうのはそのうちの一つだ。で、やはりネットに慣れている人ほど(そして炎上を避けようとする意図がある人ほど)、すぐに謝ってしまう。もちろん全面的に発言者が間違っていた場合ならそれで問題ないのだろうが、対して悪くない場合にでも炎上を避けようとするあまり全面的に謝ってしまう場合、どこか違和感が残る。

もし炎上を避けるために、疑義を提起され、そこに話題が集中し始めたら基本的にはすぐ謝れ、というのがセオリーになってしまったら、どうにもおもしろくない状況になるだろう。要はその時ネットは"正しさ"よりも"炎上を避ける"ための言質で溢れるわけだから。ネット上はゴミみたいな文章で溢れかえっていて、Googleのアルゴリズムもてんでたいしたことないことが衆目に知れ渡っている今、そんなのは些細なことだという見方もある。しかし、どうも釈然としない。僕はこれまで炎上したことって把握している限りではないのだけれども、いつかそういう判断を迫られる時がくるかもしれないと思うのであった。

"正しさ"なんていうものは所詮幻想に過ぎないが、しかしそれは追い求めてはじめて現れるものであって、少なくとも追求する姿勢を評価したいとは思う。

ギックリ腰

ぎっくり腰になってしまった。

立ち上がることさえできない……。今年に入ってから風邪を二回、インフル一回、謎の発疹、花粉症とほとんど毎週のように病院に通いつめていたがここにきてぎっくり腰……。さすがにもう若くない、まったく手入れしない体でやっていける状況ではないと判断しここからは計画的に身体を構築していくことにする。ただまあ、今まで何も考えてこなかったせいで何をしたらいいのかまったくわからないのだが……。いきなり走ったりせずにまずはヨガとか柔軟系からはじめようかね。

た、体力が……

先月インフルエンザにかかってから(それ以前から傾向はあったが)、なんだかあまりにも体力がなくなってしまって、電車の中で本を持つのすら厳しくてiPhoneで電子書籍を読んでいるぐらいだ。文章を書くのに必要なのも結局は体力なので、最近内容を詰めきれないことが多い。まあ、とはいえ原因不明の奇病とかでない限り1.走ったり運動したりして体力をつける。2.休みを多くとるようにする。3.このままの生活を続ける の3パターンぐらいしか分岐点はないわけだけれども。

いつもだと2を選んでいたわけだけれども、ここらでいったん身体的に仕切り直すのも悪くないのかもしれない。