基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

いろいろ

仕事ではなく日々の娯楽を効率化するプログラムを書いていたら半日ぐらい使ってしまった。原稿もそうだし、仕事でやってることと家でやってることがたいして変わらないのでなんか一日中働いている気分になってくるな……。とはいえ業務の方はやってることもだんだんスライドしデータコンサル系の仕事を振られるようになってきている。Rubyで情報をクロールし機械学習やらdeep learningを使って分析/意味付けしTableauやらでそれっぽく理屈をつけてだまくらかすということを適当にやっているが趣味の方でいかせそうなのは機械学習とかかね……。いずれ自動でブログも書いてもらいたいところであるが、うーん。

書評だと今は6割は自動生成でいけそうな気がするけど、4割ぐらいは厳しいかな……。ブログで書いている書評はだいたいフリースタイルで書きながら「そういえばアレについては書いておきたいな」ということを考え、それを書き書きしつつもう書くことがなくなったらまとめ、という感じで、「そういえばアレについて書いておきたいな」を事前にまとめてある程度整形しておけばそれっぽい形にはなるかもしれない。あらすじも同様に自動生成できるはずだが、いかんせん事前の準備をすることを想定するとほとんど差がなさそう(本そのものを読み込ませてあらすじを作成するならともかく、本のデータなんか持ってないのでそれは無理だ)

あらすじとか過去作品の系譜とかの客観的で変わらないデータを扱う大部分は自動化で処理できるはずだから、仮に書評という文化が残るとしたらそれは「評」というよりかは主観的な感情の動きの実況──つまりはただの「感想」みたいな方向かもしれないなと思う。個人的に僕はいつも書評を書いているというよりかは未読の人間が読んでも特に問題ない「感想」を書いているつもりだから、その流れなら特に何の問題もない。

BLAME!

おもしろかったんだけど、だるいアニメでもある。モデリングは良いし、アクションもいいんだけど、1時間45分の映画作品として『BLAME!』をまとめるために電基漁師らの物型に霧亥が関わる、みたいな構成になってしまっていて、それがまあ好きではない。脚本は電基漁師らの物語としては手堅くまとまっていていいんだけど、どう考えてもこいつらの生死は本筋とは関係ないし、こんなやつらが何人死のうが生きようがどうでもいいんだよなあ……と思えてきてしまった。そうなるとドラマにまったく乗れないんだよね……。

脚本はシンプルはシンプルなんだけど『BLAME!』に求めていたシンプルさっていうのは単純に都市構造体を放浪しつづける、複雑な構造体を霧亥の重力子放射線射出装置が穿って見事な穴を貫き通す──というものであって、ゴタゴタした人間ドラマをやられるとそういうのは別の作品でやってくんねえかな……といううんざり感が募ってくる。いや、これはこれでいいんだけどさ、BLAME!の名前はできればもっと小さくしてほしかったな……というのが正直な感想。あとBGMのつかいかたもまるで好みではない。30分だったらこれでよかったし、さらにいうならこれってこのあとの物語の「前兆」でしかないから、ここで続きも発表されずに終わるんだったら作品としては評価できんね。

春アニメ

一話をみた。いちばん期待しているのは野崎まど脚本の『正解するカド』

Re:CREATORS

異世界っぽいところからきたファンタジック人間が、現実にきて現地の人間とここはどこなんだーぶっ殺すぞーみたいなかったるいやりとりを一話で時間をかけてやっていててかなりうんざりした。こんなんで大丈夫か……2話は見る予定なし。

サクラクエスト

町起こしアニメなんだろうか……。題材の時点で惹かれず、キャラも特に……(髪がピンクで就活とかやられても困るし……)2話は見る予定なし。

正解するカド

一話時点ではさっぱり判断つかないが第0話(話はまったく動き出さない、前提となるエピソード)からはじまる構成がしっかりと話をつくっていくぞという宣言のようでなかなかおもしろい。少なくとももう少し見る。

ほかなんかみようかなあ。

慣れてきた

さすがに3年近く雑誌や新聞で原稿を書いているといくらか慣れてきた。

ブログだけでも10年書いているが文字数の制限がある媒体だとかってが全然違うので、そんだけ時間がかかってしまったのだろう(僕が単に下手なのもあるけど)。340字、800字、1400字、2800字とそれぞれ依頼される文章量が違えばそれぞれ必要とされるテクニックも違ってくる。情報量を圧縮し、無駄な言い回しを避け、何について書けばいいのか、という判断をする基準が自分の中にできてきたのだ。

この文章を圧縮し、無駄な言い回しを避けるテクニックって、どうにも言語化しづらい。ぱっと文章を読めば具体的に指摘することは容易いのだが、普遍的な法則として抜き出そうとするとどうだろうなあ……。意味が同じことをいってしまっている箇所は取り除くとか、過剰な装飾や取り除いてしまっても文意と文章のリズムが変わらない部分は取り除くとかいえるけど、結局重要なのはその判断(何が無駄で、何が過剰な装飾で、何がリズムなのか)を的確にすることでそれが難しい。ここはもう経験知の部分だろう。

あと雑誌で書き始めて僕がわかってなかったなと思ったのは、ブログだとそれを観ている人は検索できるわけだから、情報をある程度放り投げられるんだよね。著者は○○さんです、で終わらせても、興味を引けたら勝手にその人はググるでしょ、と判断しても問題ないわけで。でも雑誌だとそういう前提(にしてもいいこともあるけど)はあまり使わずに、紙面で完結するように情報を組み立てる必要がある。最初は雑誌でも興味さえ惹ければ読者は勝手にググるんだから余計な情報はできるだけ省きたいと思っていたけれども、最近はそうでもないのかねと考えるようになった。

他にもいくつかブロガーが原稿書く上でのつっかかったところがあるけれど、いずれまとめてみよう。

行動力

僕は決して行動力(何かをやりたい/やってみたいと思った時にそれを実行にうつす頻度の高低ぐらいの意味)が高い方の人間ではないから、行動力のある人間には憧れているところもある。ビジネス書とかでは特にそうだけど、書いてあることはほとんど変わらなかったりするので、後は実行するか否かしか成功可否を決めることはない、みたいなことが結構ある。そこででもああいう問題が、こんな欠点が──とためらっているとできないわけなので、そこで実行してしまえると強い。

身の回りでもなんか一冊二冊起業の本を読んですぐに起業してしまう人とかがいて、おお凄いな──と思ってみているのだが、やっぱり1年間ぐらいで会社を潰していたりする(最近も一人いた)。というより「そりゃ無理じゃろ」みたいな状態で起業して目当てにしていた事業が案の定潰れて立ち行かなくなったりなので当然の結末といえる。もちろん本人はショックを受けているし借金だって背負っているパターンもあるしでなかなか大変だなと思うわけではあるが、それはそれで経験のひとつだし、続けていけば成功する目もあるかもしれない。

そういう時に思うのは「この人の横に、ちゃんとした行動力のない石橋を叩いて渡るタイプの人間がいればまた結果は違ったのかもしれないな」ということと、行動力が高いのはいいけどその場合でも最低限のリスクヘッジをしておかないとまったく意味がなくなってしまうな、ということで、別に何も珍しいことをでもなんでもないのだけどそういう基本が大事だなと思うのであった。まあ、借金しまくって会社が潰れたらもう終わりですみたいなのはやっぱり無意味だよね。起業がどうとかに関わらず重要なのはうまいこと失敗する方法、失敗を最大効率で次に活かす方法なんだけど"うまい失敗の仕方"はあんまりノウハウとして広まっていないようにも思う。

生活をルーチンワーク化している

生活のすべての部分をきっちり決めておきたいという欲求が強い。

何時に起きて何時に寝るのか。朝ごはん、昼ごはん、夜ご飯には何を食べるのか。ドレッシングは何を使うのか。トイレに行く時間/回数は何回か。何時にコーヒーを飲んで、何時にお茶を飲むのか。何時から何時まで遊ぶのか。何を着るのか。そういったことが全部決めておきたくて、実際いま上げた項目はほぼすべて決まっているものになる。

毎朝、毎昼、毎夜まったく同じものを食べているので人からすると食べる楽しみがない、いろんなものを食べればいいじゃないかと言われることもあるのだが、美味しいとわかっているものを食べているわけであってそこに冒険は必要ないと思ってしまう。仮に冒険が必要ならば金曜日はルーチンから外れる、というルーチンから外れるルーチンを組めばいいだけの話で、結局のところ冒険まで含めたすべてを決めたいことに変わりはない。

すべてを決めていると良いのは日常の中で必要な判断が減ることだろう。今日は何を食べよう、今日は何を着よう、飲み物は何を飲もう、といったことに一切思考を使わないので、オートで実行できる。人間は一日のうちに”判断”に使える思考力は決まっているという実験もあるから、出来る限り判断が必要な行為はあらかじめ決めておくのは理にかなっている。

逆に問題があるとすれば、突発的な誘いにとても弱いことだろう。十年以上付き合いのある友人であっても「今日飲みに行こう」といわれても行く気力が湧いてこない。最低でも1週間前に言ってもらえないとこういうルーチン人間は対応できないのである。いやもちろん行くことはできるのだが、自分が組んだルーチンから外れることに凄く強いストレスがかかるので断ってしまうことが多い。

たぶん、いろいろ試したい人であったり、フットワーク軽く「今日飲みにいこうぜ!」と予定を変えられてしまう人は僕とはまったく違う考え方をしているんだろうな〜と思う。

炎上を防ぐ/正しさを優先する

ネットで炎上を防ぐにはいくつかの方法があるわけだが(炎上しやすいネタがあるし、言い方によってもぜんぜん違う)、燃えかけた/書かれたものに対する疑義が提起された時にとっとと全面的に謝ってしまうのはそのうちの一つだ。で、やはりネットに慣れている人ほど(そして炎上を避けようとする意図がある人ほど)、すぐに謝ってしまう。もちろん全面的に発言者が間違っていた場合ならそれで問題ないのだろうが、対して悪くない場合にでも炎上を避けようとするあまり全面的に謝ってしまう場合、どこか違和感が残る。

もし炎上を避けるために、疑義を提起され、そこに話題が集中し始めたら基本的にはすぐ謝れ、というのがセオリーになってしまったら、どうにもおもしろくない状況になるだろう。要はその時ネットは"正しさ"よりも"炎上を避ける"ための言質で溢れるわけだから。ネット上はゴミみたいな文章で溢れかえっていて、Googleのアルゴリズムもてんでたいしたことないことが衆目に知れ渡っている今、そんなのは些細なことだという見方もある。しかし、どうも釈然としない。僕はこれまで炎上したことって把握している限りではないのだけれども、いつかそういう判断を迫られる時がくるかもしれないと思うのであった。

"正しさ"なんていうものは所詮幻想に過ぎないが、しかしそれは追い求めてはじめて現れるものであって、少なくとも追求する姿勢を評価したいとは思う。