基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ラノベ定義論について

ラノベ定義論が定期的に盛り上がっているみたいですな。しかしなぜこんなにラノベ定義論は都度都度盛り上がるのでしょうか?

本当の意味で定義を必要とするのなんて一部の特殊な研究者ぐらいでしょう。大半の人にとって話をする時に必要なラノベ定義なんて個別ケースを含めてその場でちょっと話しあえばすぐに整合性が取れてしまう程度のもんです(じゃあとりあえず今回はビアンカ・オーバースタディはラノベということにしましょう、みたいな(笑))。

ラノベの定義なんて僕もどうでもいい。あの作品がラノベかどうか、どこからどこまでがラノベかどうかなんて今日のご飯を豚キムチにしようかラーメンにしようかぐらい些細な問題です(豚キムチが大好きなんです)。それは定義論を語っている人達も同じはずで(きっちりしたい人はいるのかもしれないけれど)じゃあなんでこれだけ蒸し返されるのかといえば、ラノベ定義自体は実際みんなどうでもよくて、あやふやな境界を語るうってつけの題材でもってラノベについて議論がしたいのだなと。議論がしたいという欲求があって、その為の題材としてあやふやで決定的なものもなくちょうどいいのがラノベ定義論なのだ!(と言い切ってしまおう)

まあお祭りみたいなもんですね。あるいは固有の武器感覚なのかもしれない。俺のラノベ定義論をくらえーー!! しかしプラトンの時代から(恐らくもっと前から)人は愛についてとか何やら色々議論をし、意見を言い合ってきたわけですがなんかそういう欲求があるんですかね。議論欲求みたいな。もちろん昔から議論はちゃんと目的があった。何らかの真理っぽい何かを見つけるためにあーでもないこーでもないと言い合ってきたわけです。絶対的に正しい意見なんてめったに存在せず、大抵の場合対立する意見のそれぞれに少しずつ真理っぽい何かが含まれているもので、そうした摺り合わせを通してより高次の真理っぽいものに近づこうとしてきたわけです。

しかしそんなことをわざわざするかなあ? だってめんどくさいじゃないですか。なんだか話を合わせるのは大変だし相手に理解させるのも難しいし。もちろん目的があってやる場合は別ですけどさ(会社のくだらない会議とか)。そうすると、ようするに「真理っぽい何かを見つけたい」という欲求があるっていうことなのかな。社会の中での真理とかだと一人で勝手に納得していてもしょうがないしね。これが、これが俺の真理だー!! と一人で納得できるもんでもない。数学とかならいいのかもしれないけど。

でも数学だってあれ、一人で誰にも理解できない証明をして私は宇宙の真理を発見したといってもいいものかどうか。いや本人がそれでいいんだったら別にどうだっていいんですけど、狂人でもない限り人に認められたいと思うでしょう。数学の証明だと、その証明を証明するのに何ヶ月もかかるのでなんだか大変ですね。たとえばプログラミングして20年ぐらいかけて出した何らかの証明があったとしたら、それを証明するのってどうするんでしょうね? 同じ物を動かさなきゃ証明できないからまた20年待つのか? そもそもそれで証明になるのか? って疑問があります。そもそもそんな例があるのかどうか知りませんけどー

いまいちよくわかりませんな。とにかくラノベ定義論は定義がどうというよりかは、議論するのが楽しいのだろう、という話でした。