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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

琴浦さんのアニメ一話みた:個人的に嫌いな物語運びについてと心を読むなんて普通だよっていう話

話題になっているからなんとかして一応一話だけみた。漫画で読んだ時もつらかったがアニメでみても当たり前だが変わらない。何がつらいって物語を展開させる為に、作者は主人公に数々の苦難を与えて乗り越えさせていくものだが、それが非情に安易なのだ。これは琴浦さんだけの話ではなく、よくある物語運びなので少し抽象化して書くが、その前に一応琴浦さんの簡単なあらすじ。親は育児放棄、主人公で心が読める女の子が言う数々の深層心理について言い当てられたことに怒鳴り、怒る。まわりの人間も同様に彼女を非難する。そしてその心中を読んで彼女はまた傷ついていく。

まあいわゆるわかりやすい悪人というやつを設定することで主人公を厭〜な状況に落としこんでいき、どこかの時点でヒーローあるいは救い主があらわれて、あからさまに救済を受け手カタルシスを受ける。モヒカンザコみたいにひゃっはー!! こいつらを殺して身ぐるみ剥いでやるぜーー!! というわかりやすい悪人を正義が成敗するという話だと僕はげらげら笑いながら読めるんだけど(これもそんな面白いわけじゃないが、とにかく嫌な気分にはならない)、それが精神的なイジメというか、精神的な圧迫につながるものになるとつらいというか、嫌い。

カタルシスが「相手を成敗する」という形をとらないからかもしれない。精神的なイジメの場合、相手をボコボコにするという形はとれない。それが親であれば社会的制裁を加えるにしてもいい気分にはならないし、クラスメートであってもまあせいぜいへこませるぐらいだろう。仮に殺すぐらいの制裁を与えたら与えたで、そんな状況で喜んでいる主人公がいたら普通に変態だし、変態を描写しだすと物語の方向性そのものが変わってしまう(笑)

ようはカタルシスの解放の手段が相手をこらしめるにしては中途半端に、スカっとするものにはならないし、一方で自分が誰かによって救われるというだけの話だと僕的には不満なのである。あと単純にこういう話は日常生活を舞台にするだけに「我々の日常生活にはほとんど嫌なやつしかいないんですよ」という前提を持っている。日常世界なだけに身近に感じられ、馬鹿にされている気分になってくる、のか?

いやこれはちょっと言葉を濁したというか、変えたな。僕は明確に「世の中そんなに悪いやつばっかじゃねえよ」と思っていて、単にその世界観にあわない、恣意的な人間の配置を強制しているのが気にくわないのだ。物語というのは現実をそっくりそのままトレースする必要なんて一切ない。だから仮に「世の中そんなに悪いやつばっかじゃねえよ」が客観的にある程度真であっても(そうじゃないと思うが)を物語に反映させる必要なんてない。だからこそこれは僕の好み、好き嫌いの話であるというのが僕の言いたいことだ。

うまく説明できない。ただもちろん世の中にこのアニメで書かれているようないや〜なやつというのはいっぱいいる。ネグレクトする親、いじめをする子ども、いっぱいいるが、それらを十把一絡げに「そういうもの」として書かれるのが嫌なのだよね。明確な役割を与えられた悪人というか。親は子どもを疎み、まわりの人間はそんな彼女を気持ち悪がってイジメる。なるほどわかりやすい。ただし、作為的すぎる。そして虐めた奴らは頭を破裂させて死ぬわけでもなければ酸にどろどろに溶かされて死ぬわけでもない。それが気にくわないのか。

一方「僕はそういうのが嫌いである」という視線を外してみるとなかなか面白いアニメだった。音楽は場面に合わせた単調なものしかなってないけれど単品としては良い感じだし、絵はちんまりとしているけどわりと目が離せない動きをしているし(褒めてんだかけなしてんだか)。鬱屈した前半部から、後半の救われていく過程も、難癖つけたがおもしろい。なぜこんなに騒がれているのかはさっぱりわからないけど、少なくともつまらなくはない。

心を読むなんて普通だよ

ここからは心を読むなんて普通だよっていう話をする。琴浦さんは相手の心を読んじゃって、嫌なことばかり読み取ってしまっているけれど、そんなの普通にみんなやっていることなんだよ。たとえばTwitterなんて、有名人だったら自分の名前を検索すれば自分以外のまるで関係がない人が自分についてあることないこと、誹謗中傷をいっていたり、あるいは褒めていたりといったことを容易く知ることができる。たとえばこの記事だってTwitterでちょっと検索すると「中身のないクソ記事」とか言っている人がいたりしてまったくその通りですな〜と思ったりする。

人の本音が聞きやすい時代なのだ。

しかしそれは何もTwitterに限った話ではない。当たり前の話だが僕らは対面でしゃべっている時、多くの情報を言葉だけではなく表情や、対応にかかる時間の反応速度をみて相手が何を本当は考えているのかを知る。自分と話していてわりと退屈そうだな、とかあまり好かれていないみたいだ、とか。もちろんこれは正しいとは限らないが、ある程度の精確さをもって僕らは相手の心を読み、そしてあまり好かれていないようだとおもったら離れていくし、その逆ならもっと仲良くしようとしたりする。

あるいはタイムラインをみているのなんて、まるっきり他人の心を駄々漏れ状態で読んでいるのと変わらない。ただし自分でフォローした相手の発言だけが流れ込んでくるわけではないので、それはちょっと厭かもしれない。ブロックもアンフォローもできないんだから。でも大筋では間違っていない。現代人はみな「他人の心を日常的に読んでいる」。そしてTwitterならブロック、アンフォロー、現実だったら相手と付き合うのをやめるなどという直接的なやり方で「人間関係を編集する」

そうした琴浦さんはちょっと人よりその能力が強い人ぐらいの観点でみると「なんだこの精神的虚弱者は……」「そうなるのはわかるが、お前の態度が気に喰わねえ」と思ってしまうが、まわりにあんな人間しか居ないとしょうがないよな、と同情的になり、同情的になる一方でそんな人間ばっか恣意的に配置する物語臭さにはかなり辟易すると、全体を総括するとこんなかんじの結論になる。

恣意的な嫌なやつの配置の問題については琴浦さんだけではなく、まあよくある話運びの展開だといえる。質がいいとされているシナリオでもこうしたやり方は多用されるので正直辟易する(エロゲとか、少年漫画で顕著だが)。あまり趣向をこらさない、考えなくても簡単に使えて、わかりやすい展開をつくることができるからだろう。

しかし誰もが自分の心情を吐露する/しやすくなった現代において「他人の心が読める」むかしながらの題材は新たな視点を獲得したのかもしれない。

まあ、2話はみないけどね。