基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

文章における攻撃力と防御力

先ほどの記事で「個人的に」とか「これは好き嫌いの話なのである」などというややこしい前置きをしつこくしているがあの文章は防御力を高めているのである。文章には攻撃力と防御力がある。「これは個人的な、自分だけの話なんだけどね」という前置きで始めると防御力はガッとあがる。なぜならそれに対して誰かが反論してきても「だってこれは個人的な話なんだもん!」といえばそれで完全論破である。防御力たかし! しかし防御力を高めると攻撃力が落ちる。

どんな発言の前にも「個人的に」とか予想されるであろう反論にたいして「いやそれはわかってますよ、わかっているうえでこれこれこういう理由でこう書いているんですよ」と書いていくと防御力だけは果てしなくあがっていくが文章自体は冗長化していきひたすら読むのがだるいシロモノになっていく。「てめーの個人の意見なのはわかってんだよ、そんなことかくなよ」といらいらしてくるだろう。そして大抵の文筆業の方々というのはこの攻撃力と防御力の調整がうまい。

まあ基本は断定するんだけど。断定して、いかに反論を予想して塞ぐべきところは塞ぎ、文章のリズムと結論へと繋げる流れをつくるか。「かもしれない」が語尾につきまくっている文章に誰が金を払うのか。ただでさえただのデジタル情報である文字、そんなあやふやな情報を付加したって誰も金を払わない。だから作家っつーやつは本来なら「かもしれない」とつけておきたくなるのをぐっと我慢して「である!」と言い切ってしまっている(んだと想像している。とこう書いているのが防御なんだが僕は別に文章で金は稼ぐ気はない)

どんな文章に金が発生するのかといえば「誰も言っていない、何らかの効果を引き起こす言葉」に発生する。誰もが言っていることに追従して同じ事をいっても誰も金は払わない。そしてそれがたとえば誰も気にもとめないような放言ではなく、「ほう」とか「なるほど」あるいは「ふざけんな!」「なんか違うんじゃないか?」と、そうした違和感を与えるような、一度たちどまって物事を考えなおしたり、世界観を広げるような言葉であることが言葉に価値があることだと思っている。

だから文章で金を得ようと思ったら(馬鹿をだまくらかすのではなく、あくまで誠実に、の話)文章における攻撃力と防御力のバランス調整、自分の文章がどれだけ相手に反応を与えるのかを意識して書く。そしてこれが何よりも重要なことだが、その文章はそこら辺にありふれているものでないことが絶対条件であり、その能力を高めていくのが正道なんだろうな、とついさっき記事を書きながら思った。

そこら辺にありふれているものでない文章にはたとえばどんなものがあるのか。
・高度な専門知識領域に関すること
たとえばぼくはシステムエンジニアなのですけど、Googleがどうやってソフトウェアテストをやっているのかはたいへん気になります。また当然ながら達成困難な、自分だったら絶対できないようなことをどうやったらできるのかみたいなことは自分にはできないので書かれると気になる。
・他の人がしたことがないような体験・経験に関すること
世界一周した人の旅行記──ぐらいだと今はありふれているかもしれませんけど、たとえばカンボジアで働いている人が書く「カンボジアで働くためにしてきたこと」とか、あるいはありふれているけどあまり書かれることのないこと、たとえば医者が診療中に具体的に何を考えているのかみたいな、あまり多くの人が書けないこと。
・別の視点を差し込むこと
たとえば震災のとき多くの人が唖然として「助け合い」だとか「信頼」だとか空虚な言葉をいっていた。いまこそ何かしなければいけない、といったってその時、その言葉はありふれていた。そんな時だからこそ「助け合い」なんてのはただの言葉であって、それを言い合っているだけでは何の意味もない、というような別の視点を当てる言葉に価値が生まれる。
・文章自体がひたすらにうまいことあるいは個性的なこと
これが出来る人は幸いである。文章だけで食っていける。だがしかし文章だけで食っていけるといっても、それで言っていることがくだらないということはほぼない。なのでこれは上記にプラスして加算される点数なのだと思う。もし文章自体がひたすらうまければ他の人と同じ事を言っていてもより読まれるだろう。

ほかにもいろいろあるがとりあえずここで。ご飯食べすぎて気持ち悪い。