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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

「望む」ことがいかに重要なのかっていう話

とりとめもなく雑記。ひとつの記事にはならないとりとめもないことを毎日考えている。吐き出す先がないのでここに雑然と書く。

アニメについて縦横無尽に語りたいという思いがずっとあった。今はその思いは5%ぐらいしか果たせていない。でも、7年ぐらいまえに「洋書が読みたい。英語で本が読みたい」と思って挫折した時の思いは今また息を吹き返して僕はもりもり英語を勉強している。さいきんいろんなことを不思議に思う。この英語への渇望が高校生のときにあったらテストとかで苦労しなくてよかったのになあなどと思う。

でも同時に「だから高校生の時に勉強しておけよ、それは貴重な時間なんだぞ」と高校生に言う気にはならないし、過去の自分にあってもたぶん何も言わないだろうなと思うんだよね。僕が英語が読みたくて、とにかくいろんな洋書が読みたいと思っているのはまさに今なのであって、高校生の時ではなかったし、高校生の時は高校生の時で、周囲の環境に圧迫され、つらくてつらくて仕方がなく瀕死の体だったが溺れるほど本を読んでなんとか生き延びた。

高校生の頃の自分に洋書を読め! 楽しいし世界が広がるぞ! と言っても「うるせえ!! こっちは必死なんだ!!」と答えると思う。あの頃は一日3冊以上読んでいたものな。とにかく文字の中に意識を逃避しなければ生き残れなかったのだ。で、これは自分以外だってそうなんだよね。みんなその時々で自分にできる精一杯をやっている。だからたとえ僕にとってとんでもなく素晴らしい作品があったり、素晴らしい経験があったりしても(たとえば洋書を読むとか)それを人に「さあやろうぜ!」という気にならない。

できるのは自分にとっていかに素晴らしい作品、経験であったのか、自分以外の人間にとってもこれこれこういう理由で適用出来る部分があるかもしれないということを書くぐらいで、それさえも正直なことをいえば大した意味があるとは思っていないんだよね。

どういうことかというと、今僕が英語を勉強して洋書を読むのを楽しめるように成ったのは、ようやくそれ以外のところを落ち着けることが出きて、とうとう英語にまで目を向ける余裕が出てきたということなのだと思うのだ。さっきも書いたことの続きだけど、たぶんみんなそうやってその時々で出来ることをやって、一生懸命に生きているんだと思う。僕はとにかく世の中の人間で一生懸命に生きていない人間なんていないと思っているのだ。たとえ家でずっと一人引きこもっているニートだろうが、ばりばりと睡眠時間を削ってまで仕事をしている人であっても、僕はその両者の一生懸命さは等価だと思う。

結局誰もが自分にできることしかできないのであって、自分のやりたいことを自然に選んでいるものだ。「◯◯がやりたい」と言いながら一向にやらない人がいるが、それはその人がやりたいのにできないのではなくて、たんにその状況下で無理してまでやりたくないということに過ぎない。誰もが自分の考える最適な人生を選んでいる。先が見えなくて、先を見ようとしなくて潰れてしまう場合は数あれど。そういう時は他人のことばに意味が生まれるのかもしれない。

ジョブズはなんとか大学のスピーチで最初は無関係に思えた点が最終的に繋がって線になったんだぜというようなことを言っていて、僕はそれを対して真に受けずにふーんと思って聞いていたけれど、あれはどうなんだろうな。きっと繋がらなかった点も多かったはずだし、そもそも点ばっかり創っているわけにはいかない。無差別に講義に出続けるわけにもいかないのだ。そして当然誰もが点と点が繋がるわけでもない。

ああよくわかんないな。僕の場合は色んなことをやりたいと思った過去の欲望がずっと自分の中でうずくまっていて、それがいつもひょこっと顔を出して、夢中にさせる。英語を読めるようになりたい、洋書を読みたいと強く願ったのは7年も前のことだけど今こうして実際に行動にうつせるようになって、実際にそれなりに読めるようになる過程を歩んでいて僕はそういう「成り行き」みたいなものを強く実感しているんだと思うんだよね。

結局「望む」ことがいかに重要なのかっていう話なんだと思う。何もかも「望む」ところからすべてが始まっている。何も望まなかったら何も起こらない。もちろん望んだだけでも何も起こらない。でも望み続けていたら、それはいつか最適なタイミングを見計らってひょこっと顔をだすものだと、今では僕はそう実感しているという話がしたかったのかもしれない。アニメについて語りたいという思いがずっとあった、という書き出しは何も考えずに書いた一文だけど、こういう望みが未来の僕を形作っていくのだと思う。