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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

作品におけるメッセージ性とは

今日も今日とてよくわからない話をする。

僕は何の因果か暇な部署ばかりにいるので今も一日6時間ぐらいは暇なのだが、サボって仕事がないことがバレると首がちょんちょんされてしまうのでなんとかがんばって働いているように見せかけねばならない。その為がんばっていろいろな技術を開発してサボり力を高めていたのだが(マジシャンの視線誘導の技術まで勉強してがんばった)、最終的にあたまのなかだけで遊ぶのが一番であると結論に達してくだらないことばかり想像して遊んでいる。

最近ハマっているのは過去に読んだり観たりした物語を頭から尻尾まで再生して楽しむことで、普通に感動して仕事中にぼろぼろ泣いていたりする(仕事しろ)。まあそんな「あたまのなかだけの遊び」の遊び方のひとつに、こういう記事になるようなことを考えるのも入っている。ようはくだらないことをつらつらと考えている。今回はメッセージ性ってなんなんだ、それっておいしんですかっていう話。

ゼロ・ダーク・サーティというウサマビンラディンぶっ殺死計画を描いた映画を見たのだが、これが大変凄まじい出来で拍手喝采万々歳といった感じだった。いい映画をみると心が潤う。

そしてレビューをいろいろ漁ってみたのだが、米レビューで「CIA広告映画! 拷問マンセー映画! 一面からしか見ていないハート・ロッカーの頃からまったく進化していない! 映画の出来がいいのは認めるけど!!」というツンデレみたいな映画評があって作品から受け取るメッセージはひとそれぞれなのだなあと思わずにはいられなかった。

作品の筋について若干補足しておくと本作は拷問の場面がけっこうある。

しかしその事実が発覚したとき世論はこれを許さずアメリカ軍を強く非難しオバマはそれを謝罪し体質を変えるし、あくどい拷問など絶対にすべきではないと声を荒げ世界にアピールした(史実通りだ)。一方それをテレビ越しに眺めるCIAの捜査官である主人公たちは何も言わずにただただ顔を見合わせる。彼女らの思いが一つであることは明らかであくどい拷問を禁止されて情報なんて得られっこねえし物事は前に進まねえ、ということだ。本作は別にそれを高らかに主張するわけではない。

たしかにうまくいっていない状況は描かれるが特に言葉としてそれが発せられるわけでもない。象徴的なのはラストなのだがさすがにそこをネタバレしようとは思わないので書かない。が、最後までみれば「少なくともCIAマンセー映画ではないよなあ」と思わずにいられない。

もちろん言葉にして主張しないからそれがCIAの広告映画ではないし、何らかの主張をおこなっていないという事にはならない。基本的には出来事で語り、表情で語る。そして最後に言葉が出てくる。言葉でまで強烈に何らかの主張をしはじめて(たとえば天皇陛下ばんざーい!!みたいな)、それに対する何らの批判も行われずにその言質がただただ素晴らしいものとして扱われたならばそれは「メッセージ性」というのかもしれないが、作品として出来がよくなるかといえば疑問だ。

なにが言いたいのかわからなくなってきた。ところでメッセージ性なるものは基本的に物語作品に求めるものではない。メッセージ性なんてものはノンフィクションにまかせておけばよい。そしてゼロ・ダーク・サーティを観て、その感想を読んで思ったことだが、フィクションとはどのようにしても誤読されてしまうものだし、そもそもフィクションとはそうした覚悟の上で書かれなければならないのだということだ。

おおかみこどもの雨と雪という映画作品が最近やっていて、僕はあれが大変素晴らしいと思ったし大好きな作品になった。しかし感想でよくみられたのが強い母親礼賛というか、異常に強く完璧に見える母親を書いたことによる気持ち悪い母親至上主義というか、圧力というか、そういうメッセージを受け取った人が多いことだった。設定上必要だったことで自宅で自分たちだけの出産を行ったり、これまた設定上必要だったことで山ばかりの田舎に引っ越すのだがそうしたところも「過剰に推奨している」と受け取っている人がいるみたいだった。

これもまた不思議な話で、作品では一言も「自宅出産最高!」などという言葉が出てくるわけではないし、またそれが楽しげでもない。田舎に居をうつすのもそうだ。まったく楽しそうではない。ただただ大変そうだ。だから僕は「あー大変そうだなー」とか「田舎には住みたくねえなあ」と思いながら見ていた。コレはなにも「これが正しい見方だ」と言いたいわけではなく、作品のメッセージのようなものは人によって受け取り方が大きく異るということに過ぎない。

一方でつくった人間には一応それなりの意図があるはずだと思う。自分ではある効果を狙ったものが、人によっては怒りのフックになったりする。そしてフィクションである以上、それはしかたがないことなのだと結局考えたのである。それはどこまでいっても架空の物であり、実際目に見えて触れることができるものでもないのである。けっきょく最終的にフィクションは鑑賞者のあたまのなかに投射され、再構築される。その過程でありとあらゆる変換が起こってつくった人間が思いもよらぬ感情を引き起こしたりする。

けっきょくどのように作品を展開するのかというのは鑑賞者の立ち位置に起因するのだろう。どのような思い込みでみるのか、どのような思想を持っているのか、どのような経験をしてきたのかで何を引き出すのかが全く変わってくる。つまるところ作品のメッセージ性なるよくわからない曖昧模糊としたものは、どの程度鑑賞者に波紋を広げるかでなにかがわかるのではないか(なんだこの曖昧な表現は)

池に石を投げる。波紋が広がっていく。その波紋の端っこの方にいる人がいれば中心近くで激しく共振する人もいる。メッセージ性なんてものは基本的に作品には存在しないと思っているのだが、「ある立場の人には一定の受け取られ方をする可能性が高い演出」などというものがあれば(おおかみこどもの雨と雪みたいに)それはそういうメッセージとして伝わってしまうんだろう。

結局なにが言いたかったのか? 別に言いたいことなど何もない。ただ、最終的には「どこに投げ込むのか」というだけの話なのかもしれないな。あるいはつくりてが目指すのは「いかに誤読されようとも狙った効果を出す作品作り」なのかな。