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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

スカイ・クロラシリーズについて1

飲み会のあと最近はよく、森博嗣著のスカイ・クロラシリーズを読んで帰る。

このシリーズは僕にとっては特別なもので、自分の中の重要な位置を占めている作品になる。人生における転換点というか、別に此の本を読んで何かが変わったわけではないのだけど、とにかくある作品が自分の中で大きく場所をとってしまってうんともすんとも動かすことができないという状況が、たぶんだれにだってあるだろうと思う。そうやって自分の中の領域を占められていくのは、新たな作品を受け入れられなくなっていくのではないか、過去のものを懐かしみ未来に目を向けることができなくなるのではないかと不安になったりもするけれども、とりあえず目に見えて場所が減っていっているわけではないので僕の頭のなかの大切なもの入れはひとまず無限であると仮定をおくことにする。

僕にとってスカイ・クロラシリーズはそんな作品群だった。簡単に説明すると、戦争が一部の人間に仮託された世界で(一部の人間だけに戦争をさせて、他大部分の人たちはそれを観てかわいそうだなあ、戦争はいけないものだなあ、やった! 勝ったぞ!として戦争のいいところだけ享受するわけだ)、戦闘機にのって、相手の戦闘機を撃ち落さんとする人間たちの物語だ。

このシリーズの中で繰り返されるイメージが、飲み会のあとの僕を癒す。景色は綺麗だ、動物は可愛い、友だちは大切だ、故郷は懐かしい、老人は優しい、家族は会いに包まれている、笑顔が絶えないことが最上である、子どもを守り、戦争は悪魔の所行であり、金儲けを邁進する人間は悪であり、暴力には非暴力でたちむかい、みんなで協力するべきであり、それに歯向かう人間は敵であり、人間は尊い存在である。

人間の社会というやつはたいへんめんどうくさいルールがいっぱいあってそれらをたいてい把握していないといけないどころか常に変更されるルールや状況を把握して付き合って行かなければいかず死ぬほど面倒くさい。相手と会話をする必要のない会話をし、嘘としか思えない絵空ごとが蔓延し、そうしたくだらなさは主に人と人の関係の中で起こる。飲み会なんてものはその最たるものでいつも終わると僕の気分は暗鬱としたものになる。

本作において戦闘機乗りたちはそうした醜い大人たちの世界と対比するかのように、空に逃れることの夢を語る。とにかく飛んでいたい、飛んでいることの浮遊感を味わいたい。地上から離れ、汚いものからすこしでも切り離されている時間こそが至福であると。だからといって永遠に飛んで要られるわけではない。戻ってきて、地上の中を生きなくちゃいけないのだ。

この地上でくだらない粘着的なものにどろどろにされていく描写と何物にも縛られない空中を浮遊する言葉のイメージの反復運動が物語として凄まじい開放感を都度生み出している。空をとぶ時の上下がない感覚、そして一瞬の判断の差が生死をわける戦闘の描写。地上に降りてもその感覚を維持しようとしても、回りにいるのは権力や責任を持った大人たちでそうした戯言に付き合ってはくれない。

醜い大人たちよ。


人の命が美しいか醜いか
闘うことが正しいか間違っているか、
誰も教えてくれなかった。


教えられるはずがない、
誰も知らないのだ。


それを知ることを諦めた奴が
大人になる。


美しいという言葉でしか、
美しさを知らない。
戦うという言葉でしか、
戦う意味を知らない。


生きていることに怯えて、
なにも知りたくない及び腰。


美しくても正しくても、
醜くても間違っていても、
どちらでも良いのか?


戦う者だけが、
美しさを知ろうとしている。
ただそれだけのことだ。


それだけのことでおとなになれなかった
子供たちが今も
お前たちを睨んでる。 ──ダウン・ツ・ヘヴン

美しいという言葉は、ひどく抽象的なものを表した言葉であって「これが美しいということである」と誰にでも了解できるものではない。美しさを知っているといったときの頭のなかにあるものはなんなのだろうか。戦うとは、生きるとは、といったひどく抽象的な問いに対する答えは真剣にそれと向き合った人間にしか現れない。生きることを深く考えずに生きて、戦うことがどんな意味を持っているのかも考えずに戦うのはよくないことだと定型句のように繰り返し、美しさについて考えたこともなく美しいという言葉を使う。

この世は空虚な言葉に満ちていて実際に中身のある言葉を発することが出来る人は少ない。どこかから引っ張ってきた慣用句、自分で思ってもいない定型句をただ並べ立てるだけだ。「これだ」と断定できるものは存在せずただただ追求の中、追求していく運動の中にこそ言葉の意味が生まれるということもある。それを知ることを諦めた奴が大人になるとは、ようは自分の中で定義を確定させてしまうことであるのかもしれない。

作品の中で戦闘機のりたちは多くのことを考えるけれどもそれはただの実感、感覚としての何かであって、つかめたとおもったらするりと手のひらから落ちていってしまうように、なんともとらえどころのないポエミーな箇所に留まってしまっている。でも僕にはその感覚がとても読んでいると楽しいのであった(2にそのうち続く)