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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

だんだん読むのが早くなってきた

だんだん読むのが早くなってきた。

何をかといえば、洋書だけど。

最初の頃は一冊読み通すのに3週間かかった。次の一冊は2週間で片付けた。次の一冊はだらだらよんで2週間かかった。このあたりから洋書を読むのが生活の一部になった。次の一冊からはあまりペースが変わらずに、読んでいた。それでも300ページの本を読むのにだいたい2週間か。ところが先日800ページの本を読み通した。これにはさすがに一ヶ月かかった。そしてそれを読み終えて次にいったら、今度はなんと5日で300ページが読めるようになっていた。

これは、けっこう凄い。継続は力なりとか、理屈はよくわからないが読んでいるうちに読む速度があがったようだ。英語に慣れたというのが一点。そして単語力、熟語力が増えているというのが一点(いちいち調べなくていい)。たくさん読むとやはりそれなりに読めるようになるみたいだ。それ以上に、その前に読んだ800ページの大著が、自分にとって傑作、むさぶりつかんばかりに読んだことも大きかったのではないかと思う。

結局人間動機をいかにコントロールするのかが重要なのだとよく考えている。僕は一人の人間を、二人の人格に割って考える。あたまのなかで理屈っぽいことを考える1人の人間と、身体的欲求を体現する1匹の獣だ。1人の人間は理性的なので将来のことなどを考えてあれをやったほうがいいよとかこれをやったほうがいいよとか考える。獣くんは獣なのでやりたいことをやろうとする。そのせめぎ合い。

しかし、結局どちらも自分なのだ。怠けたいと思うのも自分なら、美味しいものを食べたいと、ただひたすら自分の好きな事だけしていたい、嫌なことなど何もしたくないと思うのも自分。それを完全に理性で制御できるわけもなく、僕らは理性で制御できる部分は制御し、できない部分はしょうがないと笑って受入れるほかない。もっとも素晴らしいのは「獣の部分」と「理性の部分」が完全に一致した瞬間であることはいうまでもないだろう。

将来のために、理性的に考えてした方がいいことと、身体が勝手にしてしまうことが同一になると、それは素晴らしいことだろう。僕で言えば高校生の頃は英語の勉強なんかしたくなかった。したくなかったが理性ではしなければいけないと考えていた。それがせめぎ合うと疲れるしなんか罪悪感に囚われたりする。読みたい、やりたい、と身体が動いていくと学習効率がいいし精神にもよろしいというそれだけの話なんだけど。

別の話になってしまったような気もする。けっこう「自分が立てた目標が達成できなかったから自分はダメなんだ」と落ち込んでいる人などがいるけど、僕はそれでいいじゃんと思う。どっちも自分だし。できたりできなかったりするもんでしょ。だからできそうなとき、ちょっと興がのったときにうりゃーー!!って獣を理性でうまく舵をとってやったり、あるいは獣的な部分を盛り上げるために理性的な部分で段々と盛り上げて行ったり、環境を整えていったり。

そういう相互作用をどうバランスを取って、コントロールしていくのかってのが、いつまでたっても人生の課題なのだと思うんだよね。