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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

なぜ推敲が必要なのか

僕は推敲をほとんどしないのだけど(どう読まれようが気にならないし、そもそも読まれたいと思わないし)、推敲されない文章ってのはひどいもんだ。だから僕は自分が一度書いた記事はほとんど読み返さない。あまりにもひどいから。

で、今ばしばし記事を書いてたらなんでそんなひどい文章になっちゃうのかわかった。書いている最中にしょっちゅう消したり書き加えたりしながらひとつの記事を終わりまで書くんだけど、文章を終わりまで辿り着く前に直したり加えたりするから、最初の方と意味のつながりがまったくなくなっていたりする。最初から記事の趣向をデザインして書くわけじゃないからあっちにふらふらこっちにふらふら、それだけならまだしも。⇐で区切るまでに何度もなおすから一文の中でさえ意図がどんどんズレていったりする。

こんな思いつきをばしばし書き綴ってるだけだったらあんまりブレないんだけどノンフィクション本の書評だと書いたことの信ぴょう性なんかを二行書いては一行戻り、一行書いては二行戻りで考えたりしてしょっちゅうなおすからね。でもその時は一行二行間の整合性しかみえていないわけで、だから一度書き終えた後、ちゃんと読みなおして全体を通して自分が最終的に何を言いたかったのかを推測して最初からそれを言いたかったかのように文章のガタガタと思考のガタガタを修正してやるとちゃんとした記事になるんだろうなあと思った。推敲って大事だなあ。面倒くさいが。

でもこれっていろんなところに当てはまる考え方でもあるとおもうわけだ。たとえばゲームなんか創ったこと無いけど、ゲームってのは長丁場だからつくっているうちに足したり消したりして、全体の整合性が無茶苦茶になったりする。映画だって小説だって同じような欠陥を抱えている。仕事で言えばプロジェクトだってそうだろう。明確な目的のもとはじまったはずなのに、時間が経つうちに複雑怪奇なシロモノが立ち上がっていたりする。

ちょこちょこ直す人間とうえのほうで全体をみる人間が少し大きくなると必要だという当たり前の話に推敲は接続される。