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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

読むことについて

日記に対するコメントではないのが申し訳ないのですが、こっちのブログがあるのをさっき見つけて驚いてしまったので衝動的に。
いや、冬木さんの読書家ぶりが素晴らしい限りですね。更新頻度も高いうえにぱっぱぱっぱと読了されていく……。
下衆な話で恐縮ですが、冬木さんは年間だとどれくらいの本をお読みになるのでしょう。
私は本を読むのがめっぽう遅く、日々、早く読めるようになれたらなあと思っておるのです。
速読がしたいのではなく、単純に面白い本がたくさん読みたいという理由からです。
冬木さんは、どういう風に本を読んでいるのか気になった次第です。
私なんかは、遅いうえに、数行前に書いてあったことが正確に思い出せなかったりするだけでやきもきしてしまい、戻っては進み、を繰り返したりしています。
あとは黙読してしまったりするのも、なかなか癖で治らず、遅いもとになってたり……。
そんなこんなで、冬木さんの本の読み方のお話など、差し障りがなければ聞いてみたいと思いコメントさせていただきました。
こういった勝手ごとなので、お気に障りましたら、申し訳ありません。

とコメントをいただいたのでこれに対する返信を書いていたら長くなってしまったので記事にうつしておきます。コメントからさっするに『基本読書』を読んでくださっているようで。そういえばこの『基本ライトノベル』はTwitterにも流していないし『基本読書』にも書いていないし、隠しブログみたいになってますね。この記事は具体的にどんな本を速く読めるようになりたいのかがわからなかったので、小説をいっぱい読みたい! という要望でしたら頓珍漢な内容になってしまっているかもしれないです。

コメントありがとう御座います。まったく無関係なことでも何でもウェルカムです。年間だとあまり数えているわけではないですけど600冊ぐらいです。ライトノベルも入れると数百冊増える感じです。でも、たぶんお聞きしたいことは「どうやったらそれだけ読めるようになるのか」ということだと思います。

これについてはいくつかの前提条件と、そこからくる手法や目的の違いが問題になってきます。たとえば難解な哲学書やまったく新規の分野である技術書をを600冊読んで、自分の血肉にしようといってもそりゃあ無理な話です。また小説の場合は速く読もうとすると「あらすじ」しかおえないという無意味なことになってしまいます(あとでもう少し詳しく書きます)。

反対にいわゆる自己啓発書のような、あるいは特に専門性のない軽い新書物なら、僕は30分で1冊ぐらいは読めます。「10分あれば書店に行きましょう」みたいな本ですね。これは章題とそれぞれのパラグラフの題をみれば(というか読む前から題名だけで)そこに何が書かれているのかだいたいわかってしまうからです。これらは読み解くのに困難な考え方が書いてあるわけでもないですし。数式があるわけでも難解な用語があるわけでもない。基本的にはだれもが読んだら「あ~そうだね~」ということが書いてあるので受け入れが容易です。ぱらぱらーっとめくりながら「ふむふむ」などと頷いて、時々聞いたこともないような話が出てきたら目をゆっくりにしてううむどういうことだろうと考え込みながら読めばいいわけですね。

そういう本ばっかり読んでだら僕も簡単に年に1000冊読めると思います。でもたぶんなかなかそういうわけにはいかない。そんなものをいくら読んでも本当に「読んだ」ことにはならないことはいうまでもなく。それはただ自説を補強しているか、知っていることを何度も頭に刷り込んでいるだけです(それも意味のあることはありますけど)

読み飛ばし、予測する読書

ただこれは一つ「読む」ことについて重要な考え方をはらんでおりまして、ようは「知っていることは読み飛ばせる」のです。たとえば既にDNAについて充分な知識を持っていたら、生物系の読み物などでDNAとは~という記述の箇所は読み飛ばしてもいいことになります。ゲーム理論について何冊も入門書を読んでいれば、新たに読むゲーム理論の本は、それらを読まなかった時よりずっと早く読めるでしょう。

手持ちの知識が増えれば増えるほど読み飛ばすことができ、まったく未知なる領域を頭に入れる労力がどんどん減っていき、そうするとたくさん読めるようになるのです。だから世の中に存在している「速読しているわけではないが、異常に早く読む」人たちのうちのいくらかはこの「知っているところは読み飛ばしている」人たちなわけです。

しかしそうした前提とした知識を持っていなくても、すぐにできる技というものがあります。僕もけっこうたくさんの読書術の本を読んできましたが、彼ら彼女らの方法を読むとたいていの「多読家」は一冊の本を頭から尻尾まで全文を読むわけではないことがわかります。書評家の中には「ほとんど読まずに書評書いた」などという強者もいるぐらいです。

僕も最初知ったときは「そんなんで読んだって言っていいのかよ」と驚きましたが、ようは「必要なところ、あるいは面白そうなところだけ」読むわけです。本に対して消費者がかけるもっとも大きなコストとは実は「お金」ではなく「時間」であって、読んでもつまらなかったり、何かの目的のために読んでいる場合はどうせ使わなかったり、未来には忘れちゃいそうなところはガンガン読み飛ばすのが「多読家」と呼ばれている人たちの読み方なのです。その論理は、「お金が勿体ないから」といってつまらない箇所を読んでいる人は「お金よりずっと大事な時間」を失っていることになるというものです。

情報の取得率と費やす時間の最適配分を考える

このやり方は単純にノンフィクション系統の本を読むときには、読む速度をコントロールできるのでけっこういいですね。ようは目標としての読書速度はどれぐらいなんじゃろ、という問題です。ただ30分で1冊! と目標を掲げて、その1冊を何一つ理解することもなく、ページを捲っただけで「読み終えた!」といっても無意味なわけで、情報の取得率と読書速度を天秤にかけて、自分にとって最適なバランスを探すのが各人にとっていいのではないかと僕は思っています。

たとえばですね。あるパラグラフでページの半ばぐらいに「Aという概念の3つの法則」とつけられていたとします。そうすると3つの法則がこれから語られるのだなとわかる。そしたら即座にその後のだらだらとした前置きを読み飛ばし、第1に〜と1つ目の法則を説明するところだけを読むのです。そしてたいてい最初の一文はその原則を簡潔に表したものになっていて、その後には補足説明が続きます。情報の取得率をどの程度目指しているかによって、その後の補足説明をどれだけ時間をかけて読むのかを決めるのです。

仮にそこまで取得率を求めていない、あるいは既に知っている分野であるという場合はそこを読んだらすぐに第2に〜といっているところをみて、すぐに第3に〜と書いてあるところを読んでいくわけです。ようはこれが情報の取得率をコントロールするということで、まったくおすすめできない方法ですが小説にも応用可能です。たとえば「この場面はAとBが喧嘩して分かれていく場面なんだな」と場面の文脈を把握してしまったらあとはそこを読むか、あるいはその把握だけして読み飛ばしてしまうわけです。情報の取得率はかなり低くなってしまいますが、読むのだけは早くなります。

さっきも書いたように、この情報の取得率と時間の制限については個々人が最適なバランスを都度都度設定するのが重要なのです。そしてそれはもちろん本ごとに決定されるべきです。僕も全ての本を同じように頭から尻尾まで読むわけではなく、「時間をかけて読み込む本」「だいたい50%ぐらいの情報を取得する本」「20〜30%程度の情報を取得する本」「適当に気になったパラグラフだけ読むもの(本、雑誌など)」と読む本をランク分けしています。

小説を読むということ

ここでいったん小説の話をしてみますけど、小説の醍醐味とは他人が創造した世界に入り込むことであって、描写されている世界を自分なりにイメージして具体化させるところにあります。小説とは単なる記述の連続ではなく、イメージの連続体なのです。小説を速読している人というのは十中八九このイメージの展開を行なっておらず、ただ文字面を追ってようは詳細な「あらすじ」を読んでいるだけなのです。そうするとテーマだとかプロットだとかは語れるかもしれないですが、その小説が持っているイメージは絶対に語れないんです。僕は正直いって文字だけをおっても、小説を読む意味が無いと思う。なので小説に関しては、「黙読してしまう」や「読むのに時間がかかる」というのは前向きに捉えればむしろ利点ですらあります。時間をかけた分イメージを展開しやすくなります。

1冊の本から100の情報を受け取る人と、100冊の本からそれぞれ1の情報を受け取って結果的に100になっている人とでは、たくさん読んでいるように見えても大差がないわけです。凄まじい勢いで小説を読み飛ばしていく人間は情報をたくさん受け取っているようにみえて、実はそうではないのです。そういう意味で言うと僕は読むのが遅いというのは利点でもあると思っています。

文脈を読むことで読書の速度はあがる(はず)

これは別の記事で書いたことですが⇒洋書を読めるようになるプロセス2 - 基本ライトノベル

今まで僕は極普通にあらゆる日本語の本を「読んで」きたが、その実自分がどういうプロセスで読んでいるのかよく考えたことはなかった。なぜならそんなことをしなくても僕は自然に文章が読めたからだ。洋書を読んでいるとそうはいかない。四苦八苦しながら読み進めなければいけない。最初の頃は何を言っているのかもさっぱりわからなかった。それが次第に意味がわかるようになっていくには、意味がわかるようになっていく為の理由があった。

「読む」とはそこに書かれている文字の情報を自分が受け取ることである。右を向け、と書いてあったら右を向いて確かめる。これが伝達された情報であって「読んだ」状態だといえるだろう。ただし本の場合は「右を向け」だけが書いてあるわけではない。単語がいっぱいあって、それが集まって文章になって、ひとつのパラグラフをつくりあげて、章になって、一冊の本になる。僕らはいきなり「単語」を読むわけではない。「これは右だな」「これは向くという単語だな」と単語を一つ一つ認識していくわけではない。

まず「読む」時には文脈をおさえるところからはじまる。たとえばこの記事であればタイトルの「洋書を読めるようになるプロセス」なので、きっと英語の本関連の単語が並び、読むことになるための内容が書かれているんだろうなと予測して記事を読み始めるだろう。そして最初に書かれている内容から、次に繋がれるであろう内容、単語を予測しながら、それと答え合わせをするような形で、読む。

もしあなたが本を読むのが遅い、本を読むのが苦手だと考えているならば、あなたはこの「予測」が苦手なのだ。次に何を語るパラグラフがくるのか知っていれば、「だよね」「だよね」といった形で、答え合わせのようにぽんぽんぽんと読み進めていける。逆に「次になにが来るのかわからない」という状況だと一個一個単語の意味を把握し、それを前の文脈と照らしあわせて、結合させて、なるほど、と理解し、そして次を読まなくてはいけない。

いわば「文脈をどれだけ把握しているのかが読書の理解度・速度を決める」。これに僕は洋書を四苦八苦しながら読んでいて気がついた。全然意味がわからなく自分はバカなんじゃないかと嘆きたくなる時と、最初から最後まで意味がわかって自分は天才なんじゃないかと思う時があって、この違いは何なのだろうと考えた時に、文脈を把握できているか否かがわけていることに気がついた。

難解な話だと、そこに書いてあることだけでは理解ができないことがあります。「なぜ、この話が今ここで出てきたのか」という文脈の把握が、一冊のようなまとまった内容を「読む」ときに不可欠になってきます。

数行前に書いてあったことが思い出せなく、気になってしまうのはたぶんおかしいことじゃないと思います。僕は今洋書を読んでいるんですけど、英語って意味がS/V/Oという形でくるので一番重要な部分が最後にくるんですよね。だから文を最後まで読まないとその分が結局何を言っているのかよくわからないんですが、なかなか区切れない一文とかに出会うと最後に辿り着くまえに最初に何を言ってたかすっかり忘れてしまっていたりします。

そういう時は一息に「うりゃ!!」と気合を入れて速度を出して読んじゃうんですが、ただ「いま何の話をしているのか」という文脈さえしっかりと捉えていれば、前後のつながりがはっきりしてくるのでさっき何の話をしていたのかもわかるわけです。そうなるとあまり過去を振り返らずに読めるような気がします。

あと文脈の把握ができているとさっき書いた予測ができるようになるんですよね。これは小説にも応用可能な話ですが、下衆な読み方ですが「まあここでこいつが死んだように見せかけてるけど、絶対生きてるよな」というふうに文脈で判断したら前後のつながりが明確になって、細かい描写に気がつけたりします。で、ここまで書いてきたようなことをある程度意識していれば、「黙読してしまう」ようなことはあまり大きな問題にはならないのではないかと思うのです。

なにか参考になったら幸いです。

まとめ

・ノンフィクションは読みたいところだけ読む、つまらないところは読み飛ばす
⇒でも情報の取得率が下がったら意味が無いので、どれぐらいの速度で、どれぐらい情報を得たいのかは個々人による。
・「今何の話をしているのか」を常に意識して、文脈を抑えながら読む。
⇒コツは、パラグラフごとに話が展開するので、「最初に何を言っているのか」を特に気をつけて理解する。
・読めば読むほど知識がついて、次に同ジャンルの本を読むときは読むのが早くなる。
⇒これは小説でも同様。