基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

にっき4

ずっと家にいたので書くようなこともないのだが。

V.S.ラマチャンドランの『脳の中の天使』と柴田さんの『翻訳教室』と僕は友だちが少ないシリーズを7巻までとダンゲロスの漫画版3巻とアニメスタイルの003を読んだ。読んでばっかり。そしてどれも素晴らしい出来で嬉しい限り。ラマチャンドランの本は脳の中の幽霊と重複している話が半分ぐらい入っているのが残念きわまりないが、芸術について、言語についてラマチャンドランの考えが読めてよかった。芸術に感動する人間の普遍文法があるというような話で、そうした普遍文法がそもそも自然で狩猟生活をしている脳の各機能からきているという話。
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↑たとえばこの画像はいっけんするとただの白黒のコントラストだが、じっと見つめているとダルメシアンの姿が浮かび上がってくるのがわかるだろう。これは人間の能力の一例として捉えられることが多いけれど、こうした認識を覚えることは「快感」であるとラマチャンドランはいう。それがグループ化なんだよね。こういう似たような色のグループや、情報の断片をつなぎあわせてひとつの物体が浮かび上がってくる、一つの情報をあたまのなかで統合するような状況のことをチャンドランはグループ化といっている。

で、これはたとえば森の中で身体が葉っぱで部分的に遮られてしまっている天敵を認識するために役に立っていた認知機能だったという。岩の陰で身体が3分の2隠れている虎を、虎と認識できなかった個体は恐らく食い殺されていただろう、生き残っている人間はそうした虎を精確に「危険な虎である」と認識できた個体であるといった感じだ。

アニメスタイルはなんだか出るといつも買ってしまうんだが、中で語られているアニメをほとんど見たことがないのでけっきょくさっぱりわからないことが多い(なら買うなよ)。でもけっこうちゃんとつくられているので読んでいると面白いんだよなあ。今回は珍しく3つぐらいは読める記事があったので嬉しい。

友だちが少ないことやクラス内ヒエラルキーの作品は10年20年前と比べると確実に増えていると思うのだけど、どうなんだろうな。もちろん昔も友だちが少ない人やスクールカースト的な問題はあっただろうし、イジメだって今よりもっと激しかったと思うからあってもおかしくないような気はするのだけど。僕はどうもスクールカーストを主題に据えた物語は、よくできていても好きになれない。あまり明るくないテーマだし、爽快感も薄い。共感できないのは物語を楽しむ上でとくに支障にはならないはずだけど、それをあえてテーマにすえる意味がよく理解できないんだよなあ。

「え、友だちなんか一人もいなくたっていいじゃん。むしろいないほうがいいじゃん」と「スクールカーストなんか誰とも関わらなければ何の関係もないじゃん」「なんでそんな葛藤をドラマにしようと思うわけ??」と、そういう根本的なところについていけない。「そういう前提がある」とした上でなら見れるし読めるし評価もできるのだけど。だいたいあんな狭い教室に人間を何十人も押し込めて何年も一緒に勉強させるってのがそもそも間違っているので、そんなところで葛藤を感じてもしょうがない。

いや、しかし本当に友だちなんて欲しいものなのだろうか?? という考え方は当然あってしかるべきであって、そうしたカウンターパンチとしての作品もヒットしているのだからおもしろいが、しかしけっきょくその作品も「みんなで楽しんで」いるわけであってライトノベルである限りそのあたりの矛盾は解消されないのだろう。そもそも友達がいないほとんど一人しか出てこない作品なんか文学ではいくらでもあるからライトノベルでわざわざやらなくてもいいという話でもある。

友だちが少ない作品、友だちが少なくたっていいじゃないかという作品がアニメ化されたので次は友だちがそもそも友だちってなんだろう? を問い始めて知能とは何かを問いかけていく作品がアニメ化されるとたいへん楽しいですね。

冗談はさておき僕は友だちが少ないはなかなかキツイ作品でもある。いわゆるお約束にそれなりに合理的な理由をつけていく。徹底的に、完膚なきまでに、今後同類のラブコメが一切出せないぐらいに、破壊的に、やってくれたらもっと楽しめたと思うけど、でもそうすると作家性が清涼院流水とかそっちの方に行ってしまうような気もする。そこまでいくとさすがにやりすぎだろう。