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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

なんだかいろいろなことがあったみたいだ。:にっき6

なんだかいろいろやることがあって時間がウマく回っていない。仕事は全然忙しくないのだが。仮に忙しくなったらすぐにやめよう。会社勤めはストレスが半端ない。馬鹿のいうことをきいて、馬鹿にあわせないといけないのはつらい。くだらないルールが山ほどある上に、改革してまでなおしたい環境でもない。完全に失敗しきった作品を、ちょこまかなおして立派なものになんかできないのと同じように、いったんだめだめになった組織や環境は一度全てぶっ壊すしかない。まあそんなことはどうでもいい。

仕事は暇なわりにしょうじき、どうにもこれまたうまくまわせていなかったのだけど、ようやくさいきんうまくことがまわりはじめた。まわるだとかまわらないだとかいってもなにも伝わらないと思うが、まあ物事がうまくいくようになるときというのはけっこう、アナログ的にぬるぬると変わっていくのではなくデジタル的にカチッと切り替わるものだと思う。なぜかはよくわからないし、本当にそうなのかもわからない。仮にそうだとして、どの程度普遍的な話なのかもわからない。

ある閾値があって、そこに到達することですべての物事がうまくまわりはじめるといったところだ。説明しづらい感覚。たとえば仕事の人間関係でいえばお互いがお互いに「これぐらいはやってもらいたい」ラインと「これぐらいやってくれたらラッキー」ラインと「それは想像もしていなかった」というラインがあるものだと思う。そしてある時から「これぐらいはやってもらいたいライン」を超えて「これぐらいやってくれたらラッキー」のラインに到達すると、あとはある意味借りを貸しっぱなしにできるようなものなので、ちょっとやそっとのミスで立ち止まらなくなるということはあるだろう。

他にもシューティングのワンコインクリアのように、一度出来るようになったら以降はだいたいできるようになるということもある。どちらにしてもそれらは一瞬でできるようになるものではなく、継続的な積み重ねの上でこそはじめて成果を発揮するわけだ。「お、なんだか調子がいいぞ」「うまく仕事をまわせているぞ」と思う時はたいてい、そこに至るまでの継続的な集中と、継続的な努力の積み重ねがあってはじめてラインを超えているのであって、その後「調子がいいから」といって積み重ねを怠ると将来的にはどんどんダメになっていく。

そうしてダメになっていく人間を幾人かみてきた。残念な話だ。

あるライトノベル作家がお亡くなりになっていてなかなか驚いた。人は死ぬよなあ。僕もファンだったから悲しいけれど、かといって若すぎる死などといってことさら強調して悲しがるほどの関係性でもない。20年も生きれば大したものだろうという気がする。こんなに寿命が伸びたのはついここ100年ぐらいのことなのだから。40まで生きればたいしたものを遥かにこえて立派なもんだろう。産まれて30分後に死ぬ可能性だってあるわけだし。たとえば50まで生きて死んだ人にまで「早すぎる死」などといって大仰に悲しんでみせるのは現実をあまりにもみていないと思う。それを言っている人間が小学生であれ中学生であれ高校生であれ20代であれ30代であれ、いつ死んだっておかしくないんだぞ。

早すぎる死という言い方になぜか苛立ちを覚えるのは結局のところ早すぎる死なんてものはないのだと考えているからだと思う。生きてりゃ死ぬわけでそれがいつくるかなんて誰にもわからないわけで「早すぎる死」という人は人生が通常何十年も続くものであるとする世界観の中にいる人だ(でもそれは正しい)。つまるところ自分が死ぬことをまったく考えていない。僕は自分が次の瞬間死ぬかもしれないとなぜかいつも思っていて無意味にどきどきしたり心配したりするので嫉妬なのかもしれないが。

などなどそういうことはあまりTwitterには書けない。なんだか人の不興を買ってしまいそうで。

僕はTwitterにはかなり厳格なルールを設けていて、人に話しかけないとか、基本的にRTをしないとか、できるかぎり140文字いっぱいまで使うなどといったことがそれなんだけど、そんなルールを設定しているのも「強制的に人の画面に流れてくる」からそういう配慮をしているのである。できれば人が不快になるような文章は流したくない。ブログだったらまあ、Twitterもフォローするという手順で読む契約をとっているので程度の差でしかないような気もするけれど、能動的に読むわけだから、不快な気持ちになっても自己責任だろう。

それでも不快になってしまうならば申し訳ないと謝るほか無い。

村上春樹の新刊が出ていて、会社の昼休みに出てきて買った。素晴らしい、音楽のような文章。中身が頭に入ってこないのはいつものことだけど、それがなんにも気にならない。リズムが良く、キャラクタが違くてもその中に存在しているリズムが通底しているから全部同じ人物のようにさえ見える。会話は反復と止めが多用され、そのたびに加速したり速度をゆるめたりしてリズムをつくっていく。成熟の極みのような文章で、こういうレベルの文章にはおめにかかる機会はあまりないだろう。

そのうち詳しくレビューするけれど既存の作品とは明らかに一線を画している。今までの日本なのにまったく日本らしくない世界の書き方が一変して、とてもある意味では俗っぽく日本社会にコミットした描写が続く。今までの村上春樹が読まれてきたのはあの無国籍的な雰囲気だったのだけど、コレはバリバリの「日本」だ。はたしてこれが世界に受け入れられるのか、受け入れられるとしたらそれは村上春樹の小説に、無国籍的な世界観「以上」のものがある一つの証明であり、受け入れられなかったとしたら「村上春樹が世界でベストセラーになる理由」の一端の解明になると思う。