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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

にっき

あああああが20万文字続いている文章と、それなりの構造をもってキャラクターを配置しプロットに起伏がある20万文字の小説作品は、おなじバイト数だが同じ情報量ではない。前者はあを20万回繰り返せという命令をひとつ送ればいいわけであり、情報はそれだけ圧縮することが出来る。小説においても、だから情報量の多い小説と、少ない小説というものがある。繰り返し、定型文、あるいは毎度同じパターンを踏襲する場合、情報量はひどく少なくなるだろう。アンパンマンとAKIRAだったらAKIRAの方が情報量が多い。

まあ、だからなんだというものでもない。ただ思いついただけで。考えてみれば小説において「予想外な」描写に出会った時はけっこう興奮する。それはかなり些細なことでもいい。たとえば普段は有頂天になったりしない登場人物が、もらった小銭を空中に放り投げて手を高くさし上げて受け止めるような、そうした予想外な些細な仕草が人物を特徴づけることがある。そして他のどんなことよりもそうした一瞬の仕草が記憶に残ったりするものだ。

上記のシーンが出てくるのはディケンズのなんかの小説で、その仕草だけは強烈に覚えている。また、ミラン・クンデラの『不滅』はまさに「忘れられないほんの一瞬の身振り」に関する小説だった。人物に対しての記憶がすっかり消え去ってしまっても、一瞬の仕草だけがどうしても脳に焼き付いて離れない。不滅の主題とはそうした仕草には一人の人生に等しい情報が詰まっているということだった。

最初の話とはだいぶ無関係なことを言っているような気もするが。だがたとえば「コーヒー好き?」「はい」という「はい」と長いやり取り、大人数での会議を行った後の「はい」「いいえ」には大きな情報量の隔たりがあるように、一瞬の仕草に人生の情報が詰まっていることも、まったくおかしなことではないのかなという話がしたかったのである。情報量という考え方で小説を測り直す試みはちょっと面白いかもしれないな。それが自動的に判定できるようになればなお面白い。まあ多ければいいというもんでもないだろうが、情報量が少なすぎるものについては自動生成できるということになってしまう。

将棋がプログラムに負け始めたように、いつか芸術性までもがプログラムに負けるときがくるとしたら、たいへんおもしろいことになるだろう。

今はリチャード・パワーズの新作『幸福の遺伝子』を読んでいる。この人の小説はほんと凄い。すげえ、すげえぜパワーズ。あんた最高だよ。ああ、こうした文の選択、文章のリズムってやつを、うまく言語化できたらなあ。他を圧倒してるんですよ、パワーズに身についた文体っていうのは。マイ・ベストは『われらが歌う時』。傑作すぎて、ふるえたもの。ハーモンいわく。登場人物の核心的価値がもはやその世界を安定化させるに充分でなくなったとき、物語は始まる。