基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

にっき(マックス・バリーの機械男と創作手法の話について)

マックス・バリーの『機械男』がたいへんおもしろかった。

ギークな民間企業研究者が、自身の足が切断されてしまった事故をきっかけに自分の身体を高性能な機械に置き換えていくが──という話で、ラブロマンスあり、ギーク描写は全開で、たいへん真にせまっている。ギーク描写がこれだけすごいのは他に読んだことがないなあ。アスペルガー症候群の症例というか、相手の考えていることがわからない、相手の反応を予測できない、相手がこれを言ったら悲しむだろうな、というのを理解はしても言わない理由にはならないとかそうしたことが。すべてを原因と結果の相互作用プロセスと捉える思考もそのひとつだろう。怒りも、悲しみも、痛みも、すべて神経プロセスが生み出すただの現象に過ぎない。

アイディアとしておもしろいのは、義足を単なる人間の身体の置き換えよりも進化させようとしたところにあるだろう。それ自体は昔からあった発想だが、現代なりにバージョンアップさせて。攻殻機動隊的な義体ではない。GPSがついて、WI-FIでネットに接続し、ルート検索までこなしてくれるモーター付きの自足足……。使用者は自分がエネルギーを生み出す必要はなく、ただこう念じればいい。「あそこに行きたい」。 一方で、たしかに義足はいまでも無骨なものばかりで、機能的にもよくないものがたいはんだが、それはしかたがないことなのだ。

なぜなら使用者が限られているから。大量生産、大量消費によってひとつの製品にかける製造費は担保されている。大量消費も見込めないのに、労力をかけて素晴らしい、まったく新しい義足を作っても、需要の頭は見えている。本書はそのあたりのリアリティはないけれど、でも「身体を切断して機械の身体に置き換えてもいい」という価値観が形成されるぐらい、そうしたものの能力が向上し人間の価値観が変わったら、ありえない未来ではない。

しかし本作での機械の体は、「置き換える事」ばかりを目的にしていたが、本来であれば「拡張すること」が真っ先にきてもいいよなあ。とはいっても本作の主人公は列車になりたかった、という独白からはじまるので、かれの場合は拡張に向かう事はなかったのだからそれでいいんだけど。でも売ることを考えたら義肢としてではなく、既に存在している手足の上にくっつける拡張的手足として売り出す以外にない気がする。

創作手法の話

ちゃんとしたレビューはまた別で書くとして、Machine Manの成立過程でおもしろいのは、これが著者のマックス・バリーのウェブサイト上で連載されていたものだということ。そしてそこにつけられたコメントのアイディアをがしがし注ぎ込み、人の反応をみながら適宜修正してつくられた小説だということだ。連載当時から大幅に変えているとはいえ、小説のオープンソースプロジェクトのようなもので、ひとつの創作手段として面白いよね。バクマンでも同じやり方をやっている作家が出てきて、なんだかよくわからないうちに悪役のような役どころをあてがわれ退場してしまったのだが、普通に良いやり方ではあると思う。たとえば現実にこれをやっている作家には、架神恭介さんなどがいる。

というか、今はネットの連載小説なんていくらでもあるし、そうしたものもすべてオープンソース小説といえるのかもしれない。どの程度内容に介入するコメントが存在するのかは知らないけれど、オープンソース的な小説作法をやっている人はきっと僕が知らないだけでいっぱいいるだろう。

ただ、このやり方も、もちろん良いところと悪いところがあると思う。たとえば、良いところとしては、書き手の知らない情報、調べようと思ってもなかなか到達できない情報がよせられ、穴が塞げる可能性がある。とくにSFなど書くとこの効果が大きいのではないか。たとえば機械男では、幻肢痛の話や、機械工学の話、脳の話が当然出てくるが、そうしたところで識者からのアドバイスや指摘が受けられる可能性は(広く読まれていれば)あるだろう。

あとは当然アイディアを拝借することができる。架神恭介さんの例で言えば、作品の能力者は実際に彼が作成したゲームで各自が考えてきたものを登場させたり、そもそも作品のアイディアを募集する会議を開催していたりする。マックス・バリーもコメント欄からアイディアを拝借している。どうも、アイディアは基本的に著作権には含まれないようだ。

課題としてはそれをひとつにまとめあげる必要があるということか。たとえばマックス・バリーさんのような例ならば、かれが自分の権限でまとめあげていけばいい。かれの世界をつくりあげるのに必要なものを取捨選択して、世界に一貫性をもたせなければいけない。また文章をそのまま使うわけでもないので、文体の統一性も維持される。

プログラムを組む時のようなオープンソース作業であれば、何が良いアイディアで、何がよい実装なのかというのは比較的わかりやすく、客観的に示されるものだと思う。小説のアイディアの場合は、どうだろうね。単純な事実認識のたぐい(脳科学みたいな)であればいいけれど、小説のアイディアの良し悪しはぶっちゃけ客観的にするのは難しいのではなかろうか。

うーん、でも結局著者が一人で、そこに大勢の参加者、という図式で、著者にまとめあげ、アイディアを刈り取る技術があるのならばあんまり問題はないのかもしれないな。小説のオープンソースというアイディア自体は何年も前からあるものなのに、そうしたプロジェクトで評判になった作品をあまり聞いたことがないのは、ほかにもっと大きな落とし穴があるからなのかもしれないが。