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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ふう

仕事が一段落してじゃっかん落ち着いている。あと二週間ぐらいは平和なはず。

日曜日は小学生のときからの友人二人と飲んでいたのだけど、こうした古い付き合いというのはなかなか貴重だ。ばらばらの職種な三人なので、仕事の話をしているだけでけっこう楽しい。まあ話題が仕事ばっかりっていうのも、それはそれで悲しいのだが。僕には兄弟がいないのだが、小学生の頃からの友人の弟や妹、ろくに言葉も喋れなかった子が高校生になっていたりすると「うわあ、時間って流れてるなあ」と意識させられてしまう。けっきょく自分の身の回りの人間というやつは、自分に応じて年齢があがっていくからあまり違和感というか、時間の流れを意識しないのだけど、「普段会わない子ども」と遭遇してしまうと時の流れの不意打ちを食らう。

昔なじみだからいえること

僕の周りにいる人間は定職についている人間が多くない。10人中2人なんていう低い割合で、まあ僕のまわりが例外的なのかもしれないが。で、僕は自分なりに考えて、そうした無職あるいはフリーターの友人と飲む時は必ずおごるようにしている。その話を日曜日にしていたら、その日は2人とも仕事の有る人間(ただし一人は来月退職)で、「でもそれって自己責任でしょ? なんでおごる必要があるの?」と昨日話していた。「そうか、そんな考えもあるのか」とついつい考えてしまった。

うーんどうなんだろうね。たしかにけっこう負担なんだよなあ。でも僕の考えは、この世に自己責任なんてものはないというものである。「努力すればいい大学に入って、努力すれば会社に入って、努力すれば一人で生きていくだけの金は稼げる」という人もいる。だから努力をしないやつはダメなのだと。うむ。まったくそのとおりだと思うが、でも世の中には努力格差というやつがあるのである。

ようは、「努力に意義がある」と感じられる人間と「努力に意義なんてない」と感じる人間が、めいかくに家庭環境の時点で差がついてしまうのである。勉強することで自分の人生を切り開き、年収をあげてきた裕福な家庭の子どもは、努力すればその分自分にかえってくるという考えを内面化させて育つのだ。この差ははっきりと数字にもあらわれている。

家庭環境の時点で努力への動機格差がうまれているとしたら、「努力をしない奴は自己責任だ」とするのはちょっと酷なのではないかと思ってしまう。僕自身は、自分がある程度努力したり、ある程度お金を稼げていたり、ほとんど嫌な思いをしたり精神的苦痛を感じたり、肉体的ハンディを持たずに健康に生きていることはこれまったく運のたまものであると考えている。いろいろなことがうまく重なって、大成功ではないものの冬木糸一という人間を形作るにいたった。

僕がお金を定職についていない人間より持っているのは、それは僕がその人達よりがんばったからではなく、その人達と状況が違っただけにほかならない。仕事をやめていった人間は僕よりダメだったからやめていったのか? あるいは精神を病んでしまった人間はうまくしのぐ能力を育てられなかったからそんなことになってしまったのか? あんまり関係がないと思う。

家庭環境以前の問題で、最近の研究では遺伝子によって個々人の能力がかなりの部分(分野によってパーセンテージが違うから具体的に数字はだせないのだが。2〜4割程度は様々な分野で相関が出てしまう)決定されてしまったりすることがわかっている。世の中、すべてが運ではないにせよ、個人でなんとかできる範囲なんてあんまり多くないと思う。

だから──できれば自分の周りぐらいには、その運を少しはならしておきたいという気持ちがある。せめてまわりの人間には幸せになって欲しいから、こっちからできることはできるかぎりしようと思う。一方で僕は人に干渉することが好きではないから「きみらの人生なんかどうでもいい。ただ金は出す。」というのだが、そうした態度を「きみはむかしからツンデレだからなあ」といわれて、なるほどなあとしんみり思う。昔なじみの人間でなければいえないことってあるんだよなあ。