基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

にっき

上司の意見を否定するのが難しくて困っている。

間違ってはいないが、まったくもって自分は実行するつもりがない目標を勝手にたてられたとき、僕は大抵の場合「聞こえなかったことにする」というたいへんな力技でなかったことにしてきたのだが、そうもいかないケースもある。もちろん理屈っぽくこれこれこういう理由で貴方のおっしゃっていることはたいへん馬鹿げているのでまったくいうことを聞くつもりはありません、といってもいい。いってもいいのだが、時と場合によってはそれがなかなか難しかったりする。

たとえば相手の意見が、自身の人生観を体現していたりする場合である。あるいは、それまでの成功体験か。「俺はこうやって、成功してきた。だからお前らも、こうやるのだ」という言い方で、もちろんたいていの場合何面かは正しい。ただし世代が違えば思惑も違えば価値観も違う人間の集まりがチームであり組織というものなので、すべての面で正しい意見などあるわけもなく、ただし組織というのはある程度そうした個々人の理屈をねじまげてひとつに束ねていくものではあるにせよ、こちらにだって許容出来る範囲と許容できない範囲というものが有る。

小津安二郎は『どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。』という言葉を残したが、まあこんな感じでだれにだって「他人に譲歩できる部分、できない部分」というものがあるだろう。たとえば会社の命令で「親を殺してこい」といわれて誰が従うんだという話で。もっともだれだって0か1かみたいにその線が明確に切られているわけではないだろうけれど。そうした基準がぼくのなかにもあって、今回のような事例はそこにかなり踏み込まれてしまっている。

それがあまりにも理不尽なことであって、自分の方針を曲げられないとなれば別にやめればいいだけの話だが、そこまででもないし、かといってそのまま受入れるのも嫌なので、なんとか変えられないのかと困っているのであった。そして難しいのは「意見の否定」をしただけなのに、それが上司の成功体験、人生哲学と結びついていると意見にひもづいてそうした上司の人生うん十年かまでけなすようなかっこうになってしまうことである。めんどうくさい。とてつもなくめんどうくさい。

しかしこうした傾向って、いっぱいあるよなあ。意見を否定しただけで自分の存在を否定されたかのように怒る人。悪い意味で自分の言葉と、自分自身を切り離せていない。食事時に「うんこーーうんこーーー」といっても、別にご飯の上にうんこがのるわけではない(うんこという言葉と実際のうんこには、我々がうんこという物体をうんこと呼ぶという決まり事以上の関係なんて何もない)のに「マナーがー」とかいって怒られるのと同じような理不尽さを感じる(例が不適切だ)。

まあ、やんわりと「意見」にたいして反対意見をのべ、なんとか適用範囲外にしてもらうしかないだろうな。言わなきゃ伝わるわけもなし。