読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

うーん

抽象的な話だが。説明しづらいのだが、「この作品、浮いてるよなあ……」という曖昧な感想をSF作品に対して抱くことがある。

なんというか、未来に実現されるであろうテクノロジーは出てくる。ロボットが出てくる。意識の複製なんかの話もきちゃう。すごい、SF的ガジェット、道具立てが盛り沢山だ。それはわかる。でもそれらが浮いてるんだよなあ……。いきなり「ロボットに意識を転写できます」といわれても「は、はあ……そうですか……」と思ってしまう。テクノロジーについても同様で、なんか便利そうに描写されているが、それ本当に便利なのかあ?? と疑問に思ってしまう。

一方で全く同じような話でもすんなりと受け入れられてしまう時もある。ロボットも未来テクノロジーも意識の複製も「ふんふん」、VRが描写されようが謎テクノロジーが描写されようが「なるほど」と。「浮いている」と感じてしまう時と「なるほどね」となる、その境目がなんなのかよくわからないよなあという疑問。もちろんそれっぽい説明ならいくらでもできる。テクノロジーというか、技術はいきなり魔法のように現れるものではない。ほぼ必ず先行研究があって、そうしたルーツの元に様々に枝分かれしていく。科学がWhy?を問うものだとしたらエンジニアリングはHow?を問うものだが、そうした疑問と手段は連鎖していくものだ。

ロボットに話を限ってしまえば、ロボットのいる世界をつくろうとおもったら、想定しなければいけないことは数多くある。そこには設計思想があったはずで、それで金をとって利益を出せるだけの需要があったはずで、量産体制と運用・保守を考えた素材とそれだけの巨大な資本が要求されるべきであり、使用状況から何から何までを想定したハードウェアとソフトウェア両面からの選定、企業が必要になってくるだろう。適当にぱっと考えただけでもリアリティを増すための手段としてこれぐらいはおもいつく。

問題はほとんどのSFはそんなこと詳細には描かねえ、っていうことと、そんなこと描かれていようがいまいが「ロボットがいても全然おかしくない世界観」と「ロボットがいるとすごく違和感のある世界観」のあいだにある僕の違和感にはあんまり関係が無さそうだなあということで(無駄な話だったな)

うーん難しいなあ。ひとつ関係があるのはリアリティレベルって概念はあるよね。たとえばギャグ漫画だったら人が壁にめり込んでいたり、頭の信じられないぐらいでかいたんこぶができて次のページで消えても誰もなにも言わないけど、バットマンの実写映画でそれをやったら違和感しかないみたいな。ある1点の描写のリアリティを高めすぎて、テクノロジー描写が浮くってことはあると思う。というかこれは広い話にしたかったからかいていないんだけど具体的には先日出たばかりの『ヨハネスブルグの天使たち』と「パンツァークラウンフェイセズ」の話なんだよね。どっちも僕にはすごい違和感がある。

前者で言えばアフリカ大陸、アフガニスタンやヨハネスブルグを舞台にして状況としてはもう純粋に「どうやって生き延びるか」みたいな、過酷な状況を生き延びる話になるんだけどそこに自意識のようなものを有するロボットが出てくる。信じられないぐらいアフリカの描写、孤児の描写、そこに住む人間たちの描写が豊かで面白いんだけど、反面「ロボット」がどうしても浮いてるんだよなあ。後者は単純にテクノロジー描写と物語がちぐはぐな感じを受ける。

リアリティレベルの話になぞらえていえば、近未来という設定だからこそ違和感があるのかもしれない。2000年後ぐらい先で異種族がいくつもいて特殊な身体進化を遂げた人間がいて宇宙連合があって──そんな中でロボットが出てきても「ああロボットね、いるよね」ぐらいにしかならないだろう。スターウォーズみたいに。小川一水の天冥の標みたいに。

逆に冲方丁マルドゥック・スクランブルみたいに「ここではない・どこか」にしてしまうのもひとつの手段だろうし、とにかく「違和感を出させないための方法」ってのはたぶんいくらでもあるんだろう。