基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

幽霊の存在をしんじますか?

と職場の人間に聞かれて絶句してしまった。

そんな質問初めてされた!!

幽霊とはぼくにとって信じる・信じないというベクトルのものではなく二次元のキャラクターというか、エヴァンゲリオンにおけるアスカとかレイみたいな存在だった。ようは「アスカの存在をしんじますか?」と聞かれたような気分がした。「え、存在するかって、げんじつに存在するかってこと??」「ええ、そうです」 まいった、こいつは冗談で言っているわけではないのだ。仮にもエンジニアなのに! そして「幽霊が存在するかしないか」を一通り考えてそれが面白くてわらった。いままで「いるか・いないか」っていう二択で考えたことがなかったものな。でも考えてみれば不思議な話で、なんでそんなこと今まで考えたことがなかったんだろう? たとえば幽霊を信じきっていた可能性だってあるわけで、特別霊感体験みたいなのをしたことがないからだろうか? とにかくいる・いないを一度検討すらしていなかったというのは驚くべき事態であるような気もするし別にそんなもんかという気もする。どうでもよくなってきた。

仕事がなくてひまだから一日4時間ぐらいネットサーフィンしているのだが(ひどいなあほんとに)、山形浩生さん訳のケインズによる雇用、利子、お金の一般理論を読んでいる。雇用、利子、お金の一般理論 うーむケインズは凄いな。いまでいう行動経済学のような観点(ようは動機面から人の行動を推察し、その結果どのように経済活動が行われるのか)から経済活動をみているんだけど、今でこそそうした発想は珍しくないとはいえケインズが当時からすでにその観点からみていたのがすごい。それともこのときすでに当たり前の発想としてあったのかなあ。

僕はもうずいぶんな現代っ子だからケインズが一般理論を構築した時の人間の経済への理解がどのようなレベルだったのかあまりしらない。一般理論の前半部は古典派と呼ばれるケインズ以前の経済学がいかに無内容で現実を表していないかの批判でこれがたいへん痛快なのだけど、今の目からみるとあまりにもお粗末な理論を当時の人たちは現実の正しいモデルだと考えて、そしてその誤ったモデルを前提として数々の手を打っていたのだと愕然とする他無い。そしてケインズ自身最初の頃は無批判にそうした誤りだらけのモデルを頭のなかに受け入れていたのだ。人間最初から当たり前だとされていることを疑いひとつひとつを実証的に検証してみようとすることがいかに難しいか、ということか。

翻訳された文体がだめなんだよね〜という人の発言だか書き込みだかをよくみる。僕自身はあまり別け隔てなく読むので特に「翻訳っぽい文体」を意識することもなかったのだが、でも考えてみれば影響を受けないはずがないよなあ。

たとえばWho owns the futureという本を今読んでいるのだけど、これをそのまま訳せば誰が未来を所有しているのか、みたいな感じになると思う。でもふつうに同じ意味をもたせようとして一から日本語で書いてたら絶対同じタイトルにならないよなあ、所有とかって日本語、ほとんど使わないよなあと思うわけである。著者のラニアーがこのタイトルに込めている意味は明らかで、未来で勝ち組となっているのはだれか、そしてインターネットアーキテクチャはどのような構造になっているのか、といったことを問いただしているわけだけど。

「日本語で一から考えたら絶対そうはならない文章」になってしまうがそうしなければ「精確な翻訳にならない」というのだから翻訳って難しいなあ。でも一流の翻訳家たちは、そういう困難をなんとか制御して(乗り越えられるものではない)文章を汲み上げているわけであって、翻訳の世界もたいへん奥深いことにさいきん気が付きつつある。またひとつ、文章を読むことについてのトリガーを得ることができたのだろう。

そんなことを考えていたら昨日ふと思ったのだけど、僕は本当に文字だけで組み上げられた世界ってのが好きなんだよなあ。アニメや実写、漫画といった表現がこの世にはいっぱいあって、きっとそれらにはそれらの奥深さがあるんだけど、どうしても文字で組み上げられた世界になによりも心惹かれてしまう。文字だけなのにいくらでも表現手段があって、いくらでもクォリティを高めていくことが出来る。世界観、文体、ガジェット、プロット、キャラクタ、設定に……そしてそれらはときに信じられないような高みにまで到達する。

ああ、過去に読んできた傑作たちのなんとすごいことよ。そしてこれからもっとたくさんいろんな作品が出てくるんだろうなあ。圧倒されてしまう。だらだらとにっきをおとどけいたしました(これはにっきなのか?)。