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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

おれのいもうとが〜

完結したので8巻以後を流し読みしたがまあなんというか京介さんはおかわりありませんね〜。自我がありませんね〜。最後まで人間になれなかったか〜という感想。このあともどうしようもなくぐだぐだな人生を歩むんだろうな、という超バッドエンドでした。しかしよくもまあこんな何もない話が12巻も続いて一見したところきれ〜に決着がつくものですね。シリーズとしては、かなりまとまっていて良かったと思います。おもしろかったし。

ぶるさん

俺妹は一巻のみ、以降はアニメで補完してるんですが、例えば「自我のある主人公」だったら話はどう変わってたんでしょうか。面白い議題かなと思って質問しました。
ところで自我が無いなら本人には幸不幸の区別が付かないのでバッドエンドじゃないのでは。

コメントありがとうございます。自我がないならバッドエンドかハッピーエンドかどうかは難しいところですね。というかそれは余人から推し量れるものではなくなってしまいます。まあ自我がないというのは実は京介氏は表面上は自我があるように見えるが実は……という新解釈でもなんでもなく単なる比喩なわけですが。ようは最初から簡単な行動パターンをプログラムされた主人公であるというところを揶揄して自我のない主人公といっています。妹やその周辺に障害があれば彼はそれをいろんな手段をとって乗り越えていきます。告白されれば受け入れ、拒否られれば受け入れ、趣味は周囲に合わせるばかり。周囲の環境に自動的に反応するブギーポップみたいな存在じゃないでしょうか。

>例えば「自我のある主人公」だったら話はどう変わってたんでしょうか
自我のある主人公だったらこの物語は成立しません。彼に自分の夢がなく、彼に主体性がないからこそこの物語が成り立っているんです。そしてそれは別の面白さに繋がっていると思います。学校コミュニティがあり、オタク同士コミュニティがあり、芸能コミュニティがあり、ペルソナ3とか4みたいに主人公がそうしたコミュニティを巡礼してイベントが起こるって構造なわけです。これを達成するために京介はほぼ自我がない空虚な存在になってしまったわけですが(ブギーポップみたいな概念だったらよかったのにね。)、そのかわりにそうした「状況・立場が次々とうつりかわる面白さ」が生まれているのだと思われます。

まあとはいっても自我が無い系の主人公は彼だけではなくいくつか散見されますが、このシリーズはそのへんの処理が甘かった印象。全体的にプロット丸出し、キャラクタに人格が伴わず、操作されているイメージを常に受けています。特に1巻の頃と最終巻のまとめに入る辺り。「あ〜やりたい話があってキャラクタを都合がいいように動かしているんだな〜」という。「キャラクタに違和感をもたせない方法」に関しては創作論などの本は知りませんがこの本が参考になります。⇒機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる - 基本読書 人間を人間たらしめているのは一貫した設定、一貫した応答などがあげられるわけで、「操作されてるな〜」と思わせてしまうキャラクタというのはどこか「そこまで積み重ねてきた描写ではやらないであろう」ことをやっているだろうと想定されるわけであります。

たとえば一巻目で犬をかわいがっていたキャラクタが2巻でいきなり同じ犬を蹴り飛ばしていたら違和感を受けるわけで、僕が「キャラクタを都合がいいように動かしているな〜〜」という表現を使う時はたいていそういう「不一致」を念頭においていっていますが、どの程度違和感を覚えるかは人によるとしか言いようがないのでどうでもいい話ではあります。
にっき:俺の妹が〜について - 基本ライトノベル
にっき - 基本ライトノベル