基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ぐああ

本をたぶん平均からすれば読んでいる方だと思うが、たくさん読んでいるからこそ他人に気軽にオススメしてはいけないと思っている。

というか基本的に、自分から誰かに対して本をすすめるという行為はあまりいいものではない、下世話な話なのだ。「自分で」選ぶのが、本に限らず、何においても重要だ。だからぼくは、他人の書評はほぼ読まない。タイトルだけ確認して、「ああ、この人がこの本を書評としてとりあげるのか」「こういう本が出たのか」という情報だけを仕入れる。それだけで基本的には十分である。なぜなら、たとえあらすじだけであっても、ほんの内容を事前に知っているのは、その面白さを削ぐことになると考えているからだ。

そしてこれは特に気をつけたいことだが、たくさん読む人間はたくさん読む人間の観点で面白い本を選ぶ。だからほとんどの人にそのオススメはあまり意味が無いものになると思う。本をたくさん読む人間は、本をあまり読まない人間とは読み方が異なると考えるべきだ。読書家は慣れきってしまった展開でも、あまり読んだことがない人間は新鮮に感じるだろう。幼年期の終わりを経てハーモニーを読んだ人間と、ハーモニーを最初に読んだ人間では感じ方が異なるし、アガサクリスティがミステリ作家であると知らないで読み始めた人間は、ミステリにどっぷりつかった人間と感じ方は異なる。

たとえば読書家と自称するような人間はたくさん本を読むから、長い物語の方が評価が高くなる傾向にあると僕は考えている。右から左へと物語を流していくので、物理的な分量がなければ印象に残らない。たいして普段あまり本を読まない人は、短い、すかすかと言われそうな物語でも十分に印象に残るだろう。そうした「自分以外の視点」をどれだけ担保できているか、といった客観性が書評家には必要だと思う。残念ながらプロでもほとんどの書評家といわれる人たちの読みはほとんど「たくさん読んでいる人間に向けて」の視点に縛りを受けていると思う。評価からしてそうだ(だから僕は人の書評はほぼ読まない)。

人の視点をどれだけ想像できるか。そしてどのあたりを狙っていくのかを選べること。それが書評家としてのひとつの力量だろう。これは僕が「それができているんだぜえへへ」という話ではない。どこを向いているのかという話だ。