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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

書くことと変化すること

考えたことを文章に残していくのは僕の場合、頭がひどく悪いからだ。たとえば簡単な計算だったら誰もが暗算でやってしまうが、6桁☓6桁のような掛け算になってくると紙を使わないとできない人が出てくるように、僕はどうもあたまのなかだけで考えられる量があまり多くない。思考とはそもそもからして本来文字で考えているわけではない。ぼんやりとしたイメージとか、抽象された図のような感じで考えているから、書くのはそれを言葉にいったん変換していく過程のようなものだ。

いったん書いてみて、それをしげしげと眺めてみて「うーんこれはおかしいなあ」とか「なるほどなあ」とか思って次にいく、といった感じで考えを進めていく。だから何度か書いたかもしれないけれど基本的に書かれたものはすべて去った場所であって、書いたものを褒められてもあまり嬉しくはない。すでに別人の書いたものになっているわけなのだ。でも昨日書いたものぐらいだとまだ自分と近いところにいるから、けっこう嬉しいな。しかしなぜそんなことをしなければいけないのか? 自分自身を変化させていく意味とは?

特になにも考えず、ぼーっと過ごしていると人間というやつは変化しない。ただ身体が劣化していくだけだ。変化しないとずっと代わり映えのない自分と付き合っていかなくてはいけないので、自分がおもしろくない。人と喋っていると相手にはなんら新しい情報を提供できないから話もつまらなくなる。毎日毎日同じ場面にぶちあたったときに、場面が変化していなかったとしたらそこから感じ方を変えるには自分を変質させるしかない。常に違った自分であれば同じ場面、状況であっても違った感じ方をするはずだ。

僕にとってそれは書かなければできないことだが、書かなくてもできるひともいっぱいいるのだろう。また僕はたくさん読んで取り込まないと変化のための材料が少なくなってしまうけど、情報の取得効率がよかったり自分の中で自分なりの新しい発想を生み出す力が優れている人は僕より全然少ない取り込み量でどんどん変化していける。取り込みの形も本だけであるはずがない。実験だったり工作だったり運動だったり。あらゆる手段の取り込み方がある。

僕にとって楽しい人、付き合いたいと思う人、楽しい自分とはどんどん変化、変わっていける人間であって重要なのはその速度と方向性と手段だ。いろんなやり方がある。でも変化をやめたら、終わりだ。