基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

さくら荘のペットな彼女

10巻にて完結。

終わってみれば構成が綺麗な作品だった。新しい要素などなにもないといっていいぐらいにこてこての作品であるにも関わらず、まったく飽きることなく最後まで引っ張られた。お見事なり。

さくら荘を読んでいた時に思ったのは、作品の要素というのはほぼ始まる前に決まっているということ。構成の隙のなさが同時に小説の設計がどれだけよく考えられていて、そして重要なのかを教えられた。ようは作品の設計段階で、それがどれだけの広がりを持っているのかが決まってしまうのである。これは特にラブコメだとそうだ。この設計をミスると何もかもがうまくいかなくなる。たとえば主要人物がくっつく、くっつかないをやっている時に、その「くっつかない合理的な理由」がそもそもキャラクタの設計段階で盛り込まれていないとどんどん空回りすることになるように。
冲方丁かわぐちかいじ対談で、かわぐちかいじが作品のテーマについて語っていたことだがまさにこんな感じ。

そうやって必死に取り組んでいるうちに、「もし世界連邦ができれば、”国”が”地域”になり、国家という不自由なシステムから人間が独立できるんじゃないか」と、この物語が持つテーマに僕らも気が付いていく。最初から気付いているわけじゃないんですよ。ただ、そうした細かいアイディアは、「潜水艦が独立する」という漠然とした最初のアイディアの中に、既に内蔵されているものなんです。

また押井守は自身のメルマガの中で、何を省くかというのは何を出すのかと同じぐらい重要なんだと語った。それはたとえば攻殻機動隊の映画で、フチコマを排除したように。人間とサイボーグという、人間であることのアイデンティティをめぐる物語をやっているのに、フチコマのような人工知能を出してしまったら、そこまでテーマに含めないわけにはいかない。そしてそれをやったら、たった70分の映画にはどうしたってまとめることはできない。小説の設計だって同じ事で、まず達成目標と対象の読者を決め、そしてどこまで風呂敷を広げられるかを決め、そうした「最終的な目標」に向けて必要な要素を決定、省く要素を決定していかなければいけない。

これはソフトウェアの設計でも、建築の設計でもなんであれ最終的に人が使うものを頭や図面だけで設計するときには共通していることだが、「ありとあらゆるユーザの挙動、反応」を想定して設計するのが理想だ。でも勿論すべてに対処するのは不可能だが。コストと便益の間で揺れ動くのが設計の常ではある。小説のような反応が十人十色のものを設計するのはなかなか難しいとも思う。おっとこれは話がそれた。

ラブがコメるのはライトノベルではほぼ必須といってもいいぐらいの要素だが、そのやり方も人によって大いに異なる。ソードアート・オンラインシリーズが一巻で主人公とヒロインをくっつけてしまい、以後をオンラインゲーム、バーチャルリアリティの行末はどこかというテーマにしぼって書いていったようにテーマ(という言葉とは違うんだけど、ようは複雑なラブコメ要素以外のプロット)を書くにはラブコメは邪魔なのだ。もちろんありと良いスパイスになる。でもそればっかりだと筋が進まない。ラブコメ以外のプロットをずっとやっていればヒロインと主人公間のやり取りは減少し、逆にハーレムなんてやりだすともうキャラクタ間の感情値のやり取り以外のプロットを進展させるのがほぼ不可能になってしまう。

そのバランスがさくら荘は優れていたと思う。古典的なAという女とBという女の間で揺れ動く三角関係で、なおかつその間に「クリエイターの業」というプロットが入ってくる。そのどちらもが失敗や小規模な成功を繰り返して前に進み、8巻にていったん恋愛が落ち着き、その後9巻と10巻にてテーマの進行にいく。面白いのが付き合った所で終わらないところだろう。主人公たちが高校生にも関わらず、9巻と10巻にいたってはほぼ会社員のような有様で働きまくる。その結果恋愛上の悩みも高校生のものとは思えないような「仕事か恋か」みたいなところにいってようは「いっときの好きだという感情では割り切れない複雑な部分」へと踏み込んでいく。

対象年齢層をかなり広くとっているのだろう。でもそれも丁寧に丁寧に、三角関係からはじまって、二角関係に落ち着いて、さらにそこから現状に疑問が出てくるという、えらくちゃんと書いていくんだから偉いよね。しょうじきいって最後とか調子よくいきすぎではあるんだけど、それでもそこまで失敗を丹念に書いてきたというのが効いてきている。アオイホノオで主人公が、自分が一生懸命作って時間をかけて、それで出してみれば自分の作品がまったく大したことなかった、全然自分はすごくなかったんだ、ってめちゃくちゃに落ち込むところがある。

何もかもがうまくいきすぎたら物語にならない。作家の誰だったかが言っていたのが、私は自分の作った登場人物たちに嫌がらせをするだけだ、みたいなこと、ようは試練を与えるのが作家の役割なのだ。でもうまく凹ませて、そこから立ち直らせて、次の結果に前回の反省が常に生きてくるような、そうしたうま〜い飛行機の操縦みたいな、不安定の中にある安定みたいな、なにを言っているんだかわからないが、そういう舵取りを僕は「構成」といっていて、それがすごいんだよなあ。まだこの構成についてはうまく言葉にできないや。