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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

映像化の方法

小説原作をアニメ化する方法についての話ではない。

文字として書かれたものを、みんなどうやって脳の中で映像化しているんだろうという疑問。

たとえばこんな場面だとすると(女王の百年密室 by 森博嗣より引用)

女王デボウ・スホの眉が、僅かに悲しい角度になった。
緑色の瞳が真っ直ぐに僕を見つめている。
精確で力のある視線だった。
僕は待つ。
「ジュラの首を絞めたのは、あの子の父親です」
彼女の瞳が、
微動する。
「それが、神ですね?」僕はきいた。
誰も答えなかった。

一行目の段階ではデボウ・スホと僕が二人同じ部屋にいるところを僕の背中側斜め上方から見下ろしているような感じ。
当然ながら僕の目の前にはデボウ・スホがいる。
二行目で視点が「僕」の方にさらによって僕視点で緑色の瞳がストレイトにこっちを見ている状況を思い浮かべる。
三行目で、緑色の瞳の方へ画面をズーム。
四行目で一行目の段階の若干の俯瞰視点へ戻る。セリフの場面は画面としては特に意識してない。
六行目、七行目で瞳のズーム。セリフは意識せず。
最終行の誰も答えなかった、の部分は一行目よりもっと広い俯瞰で音がない画面が続く。

ここでシーンとしては切り替わる。

僕はあまり読んでいるときは頭のなかで情報を展開していないほうだと思う。部屋なんかをじっくりと思い浮かべて、あらゆる角度からこの状況をみようとしているわけではない。どちらかというと、常に頭のなかでアニメ化しているようなイメージでみている。カットが切り替わり、ズームやワイド、俯瞰といったふうにカメラ位置がかわる。頭のなかのことなので自由自在だ。アニメより不自由ではない。頭のなかで行なっている方がなんでもできるんだから、こんなことしたらアニメなんかみれないよなあと思うが、凄いアニメというのは僕程度の想像力を軽く超えてくるので、見れるものは見れる。でも原作通りに作られた場合はやはり頭のなかでやったヤツのほうがおもしろいのでみないことがおおい。

台詞を意識しないというのは語弊があって、ようは六行目七行目で行われている瞳のズームが行われている最中に台詞が入ってくるようなイメージをするとわかりやすい。運動の最中に台詞がはいってくるから、特別視点変更的な意味では意識していないということ。

で、普通にこれをやっていたんだけど、うーん、他の人はどう読んでるんだろう? そういえばこういう話をしたことがなかった。なんかこういう読み方は特殊なのかもしれない。みんなやっているのかもしれない。もっと情報を展開しているもんなのかもしれない。謎だ。