基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

昨日の話の続き

昨日の話の続きをしよう。

何をしていたのかいまいち思い出せないけど、艦これに飽きてしまったけど、僕はどうやったら飽きずにゲームができるようになるんだろうと考えていたんだった(たぶん)。「未来を想像しないこと」と「今を楽しむこと」が必要だという話。たとえば僕は小説を読むし、ライトノベルも読むし、くだらないノンフィクションも読む。これだって「未来には何の役にも立たない」わけだけど、ぼくは「読んでいる最中がとてもたのしいから」読むわけだ。じゃあなぜゲームの場合は「今を楽しむこと」ができないのか。

別の話かもしれないが、僕は野球に関して似たような疑問を持ったことがある。両親が二人とも野球が好きで、家にいて野球がやっているときはずっと中継をみていたものだ。それを僕は見ながら「毎日試合をしていれば必然的に勝つときもあれば負けるときもある。それなのにその日の勝った負けたとか、打った打たないとかに一喜一憂できるのはなぜなのか?? 勝つときもあれば負けるときもあれば打つときもあれば打てないときもあるだろう?? 観ている必要なんかないじゃないか」

今でもそう思っている。でも思うのだが、たぶん野球が好きな人達はそんなこと考えないんだろう。あるいは考えていても、別の楽しみを見つけているはずだ。勝ったら嬉しいし、負けたら悲しい。理屈というか、そういうものなのだろうと思う。もちろん楽しさがそこだけにあるといっているのではない。天才的なプレーをみて楽しむひともいるだろうし、監督の采配を楽しみにしている人もいるだろうし、野球理論的な実証がされるところを見たいと思う人もいるだろう。

つまり僕が野球に対してそういう思いをもって、「何が楽しいんだ??」と思っているのは「つまらない」とする単一の理由であって、それ以外に「楽しんでいる人たち」は「おもしろい」という複数の理由を同じものから得ているに違いないと想像する。それはきっとゲームについても同じだろう。艦これのゲームで言えば、僕は「このまま資源が増えるのを待って出撃させてレベルをあげれば別に苦もなく最後までいけるな」と想像して「それはつまらないな」と思っているが、楽しんでいる人たちはそうしたところを抜きにしても「艦娘たちがかわいい。この娘たちを育ててあげたい」「様々な編成を試して、自分好みの艦隊を創りあげたい」というようにいろんな楽しみ方をしているはずである。

楽しむための引き出しが多い人は強い。映画で言えばただただストーリーを享受してそれを面白かった、つまらなかったという人と比べると、光の当たり方がよかったとかカメラ回しがよかったとか特殊な撮影効果がよかったとか俳優の演技がよかったとか、そういうもっと細部にこだわって評価できる人のほうが、より映画を「楽しんだ」といえるだろう。そして本質的には、そうしたディテールの部分こそが映画や小説、漫画やアニメといった表現形式を延命させていくのである。小説のおもしろさがストーリーだけになったら、誰も文字でストーリーなんか追う必要がない。ストーリーだけなら漫画で充分だ。小説という形式を今まで生きながらえさせてきたのは、小説という表現形式でしかない「楽しさ」「面白さ」があるからであるといっていいだろう。