読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

攻撃時にその能力が露呈する

なんというか、攻撃的な文章というのは人間の程度を露呈させる。

ボクサーがパンチを放つときに、どうしたって同時にガードをするわけにはいかないように、文章でも何かを批判するときは必然的に自分の立ち位置というか、思想というか、人間性というか、価値観を晒さない訳にはいかない。たとえばさっきパシフィック・リムをみてきて、僕はこれ、怪獣も嫌いだしロボットも嫌いだし(どっちも出てくるだけでリアリティが消し飛ぶのに、2つも出てきたらあまりにも馬鹿馬鹿しくて‥‥しかもそれをオタクの夢的なものでくるんでるから、そりゃ好きな人はその世界を受け入れられるだろうけど、好きでもなんでもない人には受け入れられないよな、と思ってしまう。プロットがひどいっていうのはたぶん誰もが納得するだろうけど。ただ同時に映像や、色調や細かいやり取りといったところに価値を見いだせるわけで、けっきょく「どこを見ているのか」「どこを取り上げるのか」の違いだけでしかないんだけど。)と←に書いたように僕自身の好みというか、自分自身をさらけ出さざるを得ないわけですねえ。

一方でかっこの中に書いた(オタクの夢的なものでくるんでいるから、好きな人はその世界を受け入れられるだろうけど)という「楽しんでいる人を肯定するような文章を書くこと」が文章における防御力になって現れてくる。文章は基本的に防御にてっしても面白くないし、攻撃だけにてっして防御(反論への備え)をしないと「馬鹿馬鹿しいな」と読み手に思わせてしまうし、このバランスがけっこう難しいし、これをうまくやることがひとつの文章力の尺度、人間の能力の露呈にかかわってくる。一面的な物の見方しか提示しない場合「その程度か」と思われてもしかたがないだろう。たとえば風立ちぬを「飛行機が気持ちよく飛ばない」と批判する人がいれば「ああ、気持よく飛ぶ飛行機が見たかったんだね」と思うがそれだけだと「え? それだけ?」と能力も露呈するのである。

褒める文章は防御力が高いというか、所詮個人の感想だし、主観だし、別にそれで誰かが傷つくわけでもないから、「無視される」といったほうがいいのかもしれない。結局どんなふうに批判されようが「でも私はいいと思ったんだもん!!」といってしまえば完全論破だし。僕もほとんどの場合は褒めるけど、それは僕がある作品をけなした時に、それに対する反論がうまくできないよなあと思うからであるし、そもそもある作品を読んですきじゃないところも好きなところも並列的に存在するのがほとんどなら、まあ当たり障りなく褒めとくか、と日よってしまうからでもある。

あとは、やはり、何人もの人間が手間暇をかけてつくったものである以上そこにはやはり汲み取るべき価値というものはある。周波数があうか、もしくはそれを読み取れるか、増幅できるか、視点を向けられるかの違いであって、「この作品は100%駄目だ」とか「これはクズだ」みたいな一方向に振り切ってしまうとそうした自分の確定された感情を肯定するためにダメなところの理屈付けを始めてしまうので、できるかぎり肯定的にしておいたほうが汲み取れる可能性は高くなると思っている。どうせお金を払って時間を使っているんだから、何も汲み取れないよりかは、何かを汲み取ったほうがよほど有意義だろう。もちろん批判しても汲み取れるわけだけど(じゃあどっちでもいいじゃねえか)