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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

いうことといわないこと

けっこう思っていても書かないことが多い。

パシフィック・リムを初日でみた時に、実につまらないなあと思ったのだけど、それをTwitterではいわないでおいた。ブログは見たい人がくるわけであって適当に好き勝手いっているが、Twitterは強制的に流されて来る分思っても書かないことが多い。公開初日の映画についてあ〜つまらなかったわ〜といったら本当だったら観て楽しめた人が観に行くのをやめてしまうかもしれないし、これからわくわくして期待値を高めている人の気持ちを削ぎかねない。面白かった〜〜! と手放しで絶賛するときにいいことは、あまり人に対してマイナスにならないところだろうか。もちろんあの人が面白かったのならといっていったらつまらなかった! という場合はマイナスだけど、そんなに人のいうことを信じても……とも思う。人のオススメなんか本当にあてにならないものだ。

Twitterをちらっとみたり、一部の読者人気で持ち上がってくる記事一覧などをみると、いつもげんなりするような話題が起こっている。見なければいいわけだけど、目的のものを探すときにどうしても目に入ってくる。そしてそれについていつも何か言いたくなるのだけどぐっとこらえている。みんな楽しくてやっているわけであって、水をさす必要もない。そしてその度に、このげんなり感は何なのか、いったいなにがそこまで僕をげんなりさせるのか、他の人はなぜその波に乗り続けているのか、自分がおかしいのか、と考えたりする。

あるときからネットの話題はループし始めたと思う。同じような記事が何度も何度も時期を得て浮上してくる。それはたぶんインターネットの存在が長く続いてきたからでもあるし、常に新しい人が入ってくるからでもあるのだろう。何度も何度も繰り返されたコピペ、何度も何度も繰り返された話題、何度も何度も繰り返された議論、その度にあーでもないこーでもないというのに、たぶんうんざりしてしまったのだろう。残念なことにインターネットもすでに歴史となってしまい、そしてもっと残念なことにそのインターネットのログはなかなか消えずにずっと残っている。

これはたとえば別の分野でも起こっていることだ。出版でも、音楽でも、映画でも、ゲーム、エロゲーでも(なぜエロゲーだけ分けた)。なぜなら昔の名作と呼ばれたコンテンツが全て残っているのだ。僕らは一生その名作をやっていくだけで時間を潰していくことが出来るだろう。今まで本には絶版があった。しかしこれからもうなくなるだろう。ゲームも、音楽も、映画も、昔のコンテンツがすぐに手に入る。だったら、何を好き好んで新しくて評価の定まっていない名作かどうかもわからない作品を需要しなければいけない? もちろん現代のコンテンツには、過去に存在したどんなコンテンツも持っていない武器がある。「現代の心象」「現代のイベント」を扱うには、現代の作品でなければならないからだ(それを先取りすることもできるが)。

でもそれはそんなに数が必要だろうか? 古いものがずっと残っているとしたら、新しく出てくるものに求められるのは「かつてなかった新しさ」だが、新しいものもそんなにたくさん出てくるだろうか? と考えていくと、出版も音楽も映画も今後今より盛り上がることなんてもうないのだと結論せざるを得ないだろう。一方でライトノベルという分野に僕がずっと注目して楽しんでいるのは、「常にかつてない出版スピードで変化を続けているが故に、この流れに逆らっている」存在だからでもある。

ラノベ語り、ラノベ論といったものは決まって議論百出か、「こいつは何バカなこといっているんだ??」とバカにしたくなるようなものであふれているが(出版されているものも例外ではない。)それはいつ何時を切り取ってもラノベ・スタンダートなるものを抽出するものがひどく難しいからでもあろう。「漫画とは○○である」といってジャンプ漫画しか対象にしていなかったら「馬鹿かお前」といわれるに決まっているが、ラノベ語りという分野ではさも当然のようにそれが起こっているように見える(最近は記事も読んでないけど)。常に流行にそって変化を続けていくことと、あまりに広い分野を「ラノベ」とジャンル分けするがゆえに、各人各様のラノベ観が存在する。「ラノベは〜」と語るときはそうした多様なラノベ観を相手にしなければならないわけであり、防御するのがひどく難しい。

さあ、どうなることやら(ラノベが、というより出版とか音楽とか映画とかゲームとか全部ひっくるめて)。