基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

名前をつけることでわかったような気になる

名前をつけることで安心してしまう、ということがある。

たとえばラジオが目の前にあったとする。「ああ、ラジオだ。」と多くの人は思うだろう。それでその人にはラジオのことがわかった、と思ってしまう。ラジオが目の前にあって、自分はそれをラジオだと知っている。しかしそれはどういう装置なのだろうか? 音が出る装置だ。もちろんそれはわかる。じゃあ、どういう仕組で音が出ているのか? 無線がにより情報をやりとりして音を出力している装置だ、と答えられる人も多くいるだろう。しかし無線とはなんだ? どういう仕組で発信者からの情報を正確に受け取って音声の形で出力することができる?

「ラジオ」と名前をつけてしまうことで、それが何であるのかを深く考えなくなってしまう。たとえば『無線通信により音声を送受信する装置』と名付ければ、理解は少しは深まるだろう。それでもまだ全然、全体のぼんやりとした仕組みを把握するだけにすぎない。けっきょく名前は物事を表す記号をあらわしているだけだからだ。花の名前を多く知っている。機械の細かい部品名を多く知っている。鳥の名前を多く知っている。そうした記号を知ることはたしかにひとつの達成ではあるものの、単に記号を知っただけのことにどれぐらいの意味があるだろうか?

と、これはフィクションの話に繋がる。最近だとガッチャマンクラウズというアニメでゲーム的な楽しさを演出することによって社会を自然と良い方に導こう、という概念が出てくる。ゲーミフィケーションという名前で最近通りがいい概念だ。何冊も本が出て、それなりに広がっている言葉なのでガッチャマンクラウズついて話す時に通ぶりたいならば「ゲーミフィケーションを使ったアニメで〜〜」となる。けど、けっきょく「ゲーミフィケーション」という言葉を使うことによって何かを理解したりしたつもりになるのはお門違いな話でもある。セカイ系だのなんだのと物語の世界ではしょっちゅう意味不明な用語が現れるが、言葉をむりくり定義したりするのは「なにかをわかったような気にさせる」という意味で危険な話ばかりだ。

フィクションというのは容易には言葉にできないことを表現することが出来るひとつの手段だと思う。村上龍だったか誰かが言っていたが、「がんばれ」というたった一言を伝えるためでも、一冊の小説になる、だかなんだか。「がんばれ」とひらがな四文字のテーマも小説になりえるわけだ。しかし別に何かメッセージを伝えることが小説の目的ではないし、最初から言葉にできるようなメッセージであれば、ノンフィクションで書けばいい話。作品中の要素を「ゲーミフィケーション」とか「セカイ系」のような言葉で何かを圧縮して説明するのはだから、フィクションの本来の有り様に逆行しているような気がするな、今後できるかぎりやめよう……と最近自省しているところ。

一方名前を適切につけることで前進する時もある。わかりにくい名前からシンプルに問題点を指摘した名前への変更は、本当の問題に焦点をあてて検証を前進させる、たとえば白血病のように。名前をつけて概念をわかりやすく定義することにはいいこともあればわるいこともある、という話。やめたほうがいいなあ、と思うのは主にフィクションの話。現実では用法用量を守って正しく使用しましょう。