基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

勉強

冲方丁さんの『はなとゆめ』で清少納言の話を読んだ後、枕草子を読んでいたらこれが凄く面白いことに気がついた。原文『枕草子』全巻 

上手の歌をよみたる歌を、物おぼえぬ人は、そしらずやはある。かりのこ食はぬ人もあンめり。梅の花をすさまじと思ふ人もありなむ。ざいけのこは、あさがほ引き捨てずやはありける。さようにこそは、おしはからめ、げになまねたくもおぼえぬべき事ぞかし。されどなほこのすずろ事の、知らぬばかり好ましくておかれぬをばいかがせむずる。

かつて古文の授業でやったときはたんなる点数をとる為にやっていたわけだけど、こんなにおもしろいものだったのか……。日本三大随筆なんて言われたって、単なる暗記項目に過ぎなかったし。勉強なんてなんでもそうだが、大学の4年間までは本当に楽しいことをするための準備期間でしかない。本当に面白い時間っていうのはそうした準備期間をおえて、培ったものを使って遊び始める段階でくるのだなあとあらためて思ったり。たとえば今は洋書を読んだり海外のWebSiteを読むのが楽しいけど、そもそも英語をある程度理解していないと無理だ。枕草子だって古文を知らないとほとんど意味がわからないだろう。

だからといって誰もが楽しめるように勉強させればいいとも思わない。つらさをごまかして「楽しいんだよ」「点取りゲームみたいに考えればいい」と教えるのは違うのではないか。下積みの期間は多かれ少なかれつらいものだからだ。格差の極端な世界では教育効果はまざまざと発揮されるから努力のしがいもある。しかしいったん豊かになった社会では、教育効果がわかりにくいだろう。すごく勉強した人と、あんまり勉強していない人が同じようなものを同じように楽しんでいる。それでもそこには違いがあるのだ、楽しさがあるのだ、ということを伝えられるかどうか。

つらいところを通り抜けたら、格差の解消以外に、こんなに面白いことがいっぱいあるのだ、と伝えられるかどうかかな、と教育については思う。「こんなに楽しそうなことがあるんだよ」と言っても仕方がない。「学び」の本来の形は人に強制や勧められてやるものではないのだ。人に強制されて日本語を覚えたわけでもなければ、人に強制されて歩き方を覚えたわけでもない。最初は親の模倣として。次第に自分なりに言語のルールを解釈し、親の言わないことにまでルールを普遍させて自由に言葉をつくりだす。

何もいわずに熱中していればまわりにいる人は自然と興味をもって自発的にはじめるものだ。そうしたケースを今までいくつもみてきた。