基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

情報的飢餓感

軽く雑記でも。さいきん仕事が忙しくてたまらん。記事を書くほどの気力も湧いてこない。まあそれはおいといて『新訂 福翁自伝 (岩波文庫)』である。福沢諭吉の自伝で大本の本は百年以上前のものだがこれが面白くて仕方がない。なんとも偉い人というかお札的な意味で高価な人と捉えられがちな福沢諭吉ではあるが、その実大酒飲みで若いころからろくでもないことを山ほどやっている。が、その勉学に対する姿勢は一貫していてその知的探究心が読んでいて面白い。

どうにも知的探究心というやつは、飢餓感と表すのがいいように思う。情報的に飢え、知りたいことがまったく知ることが出来ないという時に念願の情報が目の前にやってきたときにむさぼりつくようにして食らいつく。そうした情報的飢餓感のエピソードが本書には何度も出てくる。時はまだ江戸時代であり外国人もたまにはくるしこちらからもたまに使者がいくものの洋書のたぐいはめったに入ってこない。福沢諭吉も英語をやり洋書を読めるようになるが、珍しい洋書などなかなか手に入らない。

たまにどれだけ働いても買えないような高価な洋書が近所で手に入ったと聞けば、ほんの少しでいいから貸してくれないかといって借りてきて不眠不休で本を書き写す。当時の福沢諭吉の学問キチガイエピソードはすごいもので、体調を崩して枕を探したら家に枕がない、捨てたのかといえばなんのことはない、たんに毎度崩れ落ちるようにして本を読むまま机に倒れこんで寝ており、布団でなど寝たことがなかったなどと平気でいってのけるのである。しかも当時はそうした人間がいくらでもいたのだという(もちろん謙遜の可能性は否定できないが、あまり意味のない謙遜だからたぶんほんとだろう)。

当時はそうした自国以外の情報があまり手に入らない状況であるから、洋書を手に入れその科学をしるということはまた情報の価値が違っただろう。日本という国で自分以外知らないかもしれない情報が山ほどあるのだから。いまは不眠不休で書き写さなくたって洋書なんかいくらでも手に入る。むしろ情報は溢れかえっており、情報に対する飢餓感などというものはほとんど感じないものだ。まわりに食べるものがいくらでもあれば無理にがっついて食べる必要がないのと同じように、知的探究心というやつもまわりに環境が整っていればそうそうエネルギーに変わらないのであろう。まあそのわりに今日ふと駅のホームを見回していたら8割ぐらいの人間がうつむみて形態の画面を覗きこんでいてなんだかあんまり気持ち良い光景じゃないなあと思ったりしたけれど。飢餓感から携帯(スマートフォン)をみているというよりかは、中毒患者のそれのように思える。

しかし枕草子といい福沢諭吉といい長年生き残っている本というのはやはり面白いもので新刊を追うぞ、という気が年々減退していくなあ。新しく評価が定まらないものより古い評価が定まっているものの方が面白いが新しいものは現代を捉えている。