基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

自己肯定感はどこからでてくるのか

僕はかなり自分を肯定する傾向が強い。誰に何を言われようがたいして気にならない。そのひとつめの理由は、この世に「責任」なんてものは誰にも負わせられない原理があると感じているからだ。たとえば自分がミスをして何か問題が起こった場合でもああ問題が起こったなあ、なんとかしないと、としか思わない。それは別に反省していないわけではない。何度でも同じ失敗を繰り返すというわけでもない。対策は必要だと思ったら打つし、必要だと思わなければうたない。がそれは何も自分に限った話ではなく、誰がミスをして失敗しようが別にどうでもいいし、「ある人の責任」なんてないと思っている。問題の原因というのは究極的に突き詰めればどこかの誰かの親へ行き、その親の問題も突き詰めればその親へと遡っていくもので原因追求に終わりがあるとすればこの宇宙が存在すること自体に問題があるという結論が出てしまう。

もちろんそんな結論で誰かが納得するわけもないので毎度どこか適当な落とし所を探していくわけだ。仕事や共同作業や個人の趣味でも何でも「現実問題対処ができて、対処を打つことによってある程度問題が軽減されるポイント」に落とし込めばいいからそれでいい(円周率が3.141592……と細かいところまで使用しなくても、3.14まででだいたいの用途が間に合ってしまうように。)。もちろんその結果「あ、とりあえずこいつを排除すればうまく周るな」という時ももちろんあって、そういうときは排除すればいい。

ミスがおこってしまうような環境を作った人間のミスであるともいえるし、いくらでもいいようがあるし対処のうちようはある。ある人を排除する場合があるのはそれが最もコストパフォーマンスがいいからであってそれ以上でもそれ以下でもない。重要なのは問題に対する対策を即座にうつことであって、誰のせいだとか自分の問題だとか、自他組織問わず問題が起こった時に自分を貶める必要はない。その結果自分が排除されることになったとしても? うん、それも問題ない。いろんな要因があって、たまたま自分の能力がそこに合わなかったと判定できてコストパフォーマンス的にそうすべきだという結論が出てしまっただけだ。

しかし今いったことだけでは問題ないだけで、自己肯定感にはつながらない。この自己肯定感というのはどこから着ているのだろうとむかし一度考えて、その為にはひとつの視点を持っているだけでだいぶ違うのだと結論を出したことがある。ようは「未来」から現在の自分を観られるか、というのが重要だと思う。たとえ失敗をしようが、現在未熟だろうが、少なからず前へと進んでいるのだという絶対の確信があれば、現在においてどれだけダメだろうが関係ないのだ。だって少なくともその失敗や未熟さはこれから先変化するべきものであり、失敗は糧となっていくものなのだから。未熟なら未熟だと気がつくほど、失敗をすれば失敗をするほど、前へと進んでいるという確信を得ていくことになる。

今やっていることのほとんどが10年から20年後に芽が吹けばいいと考えていることばかりである。文章を書くのだってそうで、今はこんなだが20年後には自分の考えている理想の形に、少なくとも今よりは近づいているに違いないという確信がある。語学も、本業でも同様で、今すぐには役に立たないものの10年後、20年後にきっと役に立つであろう勉強を着々と準備している。僕という個人のレベルにおいていえば、間違いなく楽しい方向へと進んでいて、悲観的になりようがないものだ。

絵描きが絵の表現でお金がもらえるのはそれまでの積み重ねがあってこそである。個人から会社、国家に至るまであらゆる好況というのはそれまでに積み重ねてきた内実によって決定されている。だから「お、なんだか調子がいいぞ」といってそこで遊びほうけたり、その波にのっかったままで次への仕込みを怠るとすぐに墜落していく。調子がよく見える時は、過去の遺産で調子がよくなっているのであって、調子のいいように思える時こそ次へと向けた準備が必要。本来僕がやっているようなことは学生時代に真面目に勉強して既にやっているべきであったことが多い。サボればやらなければいけないことが後へ後へと押していくだけだ。