基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

それにしても

マネーボール』という映画をみていたらこれが素晴らしかった。

原作自体は読んでいたのだが、物語化されていても何ら違和感がないな。巨大な金が動き、経営者は身を切り詰められるようにして働いている。その下には中間管理職がいて、それぞれがそれぞれなんとかして保身をはかったり冒険に出たりする。マネーボールは女性が子供をのぞいてまったく物語に関与しない映画で、精神や自分の将来を「賭け」にいれて誰もが信じない数字を使った人材評価とチーム運営をしていく男の覚悟の物語なのだが。そのシビアさがとてもいいと思うと同時に、絶対にアメリカじゃあ働きたくないなあと思わせるのだよなあ。

選手には突然「お前はトレードに出した。今からお前はここへ電話して飛行機の手配をしてもらえ」と何度も告げなければいけない。言われた方も事情はわかってるからクソッとかふざけるな! とイイたいのをぐっと我慢して「ああ……」と頷いて去っていく。あるいは首にされて次の職場を探しに行く。トレードしていい選手をゲットできたらいつまでもお荷物をチームにおいておくわけにもいかない。しかもそれを支持するジェネラルマネージャがたよりにしている数値を使った人材評価もそのまま当てになるとは限らないのだ。大勢から「お前のやり方は間違っている。今まで長年経験してきたスカウトの腕を信じろ、統計なんかじゃなくて」と言われて、なおかつ自分の道をいくのはつらいものだ。

彼は絶対に試合を自分の目でみない。目でみていたところで指示が飛ばせるわけでもなく、精神の安定に悪いだとか、自分なりのおまじないだとか、客観性を保つためだとかいろいろあるだろう。最後自分の賭けがあたってチームが二十連勝を決めた時の、ビリーがたったひとり試合も見ずに、ジムの中で座ったまま小さくガッツポーズをするところは本当に名場面だった。リアルに物事を成し遂げた時の情感に迫っていてよかったのだな。何かをやり遂げて、全員でわーわーと盛り上がってハッピーエンド。それもまあいいだろう。スポーツなんかではみんなやっているし。でも、「賭け」をした時の勝敗というのは、誰にとっても個人的なものなのだ。そして一人でいるということは、他者に自分の姿を演出しなくてもいいということでもある。

ビリーは終始一貫して自分の立場があるから、その堅牢な姿勢を崩さない。子供に対しては、「大丈夫だ。父さんの仕事はうまくいっている。絶対に仕事がなくなったりしない。」と言ってみせる。部下に対しては冷酷な上司として冷静にクビだけを告げる。飲みに誘ったりなどはしない。それらはすべて「やっても仕方がない」ことだからだ。子供にたいして「父さんダメかもしれないんだ」と正直にいったところで、子供が不安がるだけで結果が何一つ変わるわけでもない。選手に対する態度だって同じことだ。情感たっぷりに嘆いてみせたところで、やるべきことは変わらない。だからたったひとり、誰もいないジムで、なんの演出でもなく、自分にしかわからない形で「小さくガッツポーズする」ということは、これは自分自身を周囲に演出し続けてきたビリーの素の部分が出た一瞬で、最高にかっこいい瞬間なのだ。

野球も賭けだが映画業界も似たようなもんだ。Gravityは信じられないヒットを飛ばしたが、金をわんさかかけたローン・レンジャーはこけた(僕はこの映画大好きなんだけどな。二回も見るぐらい)。Gravity制作チームはこんなにヒットするとは思わなかっただろう。逆にローン・レンジャーチームはもっとヒットすると思っていたに違いない、なにしろジョニー・デップを主軸に据えた超大作、それも人々に広く知られたおなじみの題材だ(ジョン・カーターもそうだが)。何がヒットして、何がヒットしないのか。どんなに統計が発達しようが未だに物事の最終決定のところにある決断には不確実性がからむ。不確実性の中から自分の目的とするものを得るために「賭け」をする。そんな物語が面白い。

しかしハリウッドのこの年々超大作化していく傾向はとまらないのだろうか。大作化すればするほどリスクは増える。リスクが増えればヒットした作品の続編や前日譚が増える。でもそれじゃあジリ貧だ。ということで今はみな中国市場狙いだろう。そこぐらいしかペイできそうな金を持った人口を抱えているところってまだない。その為今よりももっと場所や時間を特定させず、名前もそれぞれの国のものに容易に変えられるようなそんな抽象的な物語が増えていくのではなかろうか。さあ! SFの時代でありファンタジーの時代である。