基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

天才に相対したときに凡人が何を思うのか

ちょっと書いている時間がもったいないので箇条書きで。

『四季』と『BEATLESS』は関連した主題を持っている。
関連した主題とは、人類を超越した相手を前にして人間はどうすればよいのか。
遥かに高度な処理速度を持った相手を前にして「自分の意志が相手の操作を受けたものであるのか、またはなんの操作も受けていないのか」を判定するのは不可能である。
相手が笑う。こちらに好意を持っていると思う。そうした前提に「しかし相手はこちらに好意をもたせようと楽しくもないのに笑ったふりをしているのかもしれない」というひねった疑惑を持ち込むことで簡単な人間関係のはずがどんどん複雑になっていく。
高度な能力を持った存在であれば、あらゆる処理によって人間の行動を制御することは可能であるとする。そうした場合さっきの話に戻り「自分が操作を受けているかどうかがわからない状態」になる。
『四季』ではそうした天才を中心として周りの凡才がどう振り回されるのかの表現がある。利用しようとしてついていくことができずに自滅するもの。そもそも近くにいることで不確定な影響を避けられないのであれば、むしろ近づかないことを選ぶもの。適切な距離をとって、近くにいようとするもの。「この人間を超越した相手にならば、自分はどのように利用されていても、または利用されていなかったとしても構わない」とするもの。BEATLESSでもこの問題は描かれるが、主人公という明確な基準点が「相手の意図がどうであれ、自分の気持ちは本当である」というちょろさを発揮するので立場的な広がりは弱いか。
『四季』はその高度な情報処理能力があるにも関わらず「恋愛」のような辞書に載っていないことがわからなく、しきりと実戦をしてみようとする描写がある。BEATLESSでも、人間がやることをロボットに移譲していった結果、人間に残されたやることのひとつは、恋だ、というひとつの結論があった(ような気がする)。しかし四季はさらにその前へ行こうとする。「天才」が最終的に向かっていくのはどんなところなのだろうか。といことを考えながら『四季』を読み返している。そしてもうすぐBEATLESSの同人誌が届く。