基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

言語による違い

僕はずっといずれ自動翻訳が主流になって多言語を使える利点はほぼなくなると思っていたし今でもそう思っているので日本語以外を積極的にやる理由を持たなかった。が、最近いくらか読むようになって、このあと自動翻訳が主流になったとしても、多言語を突き詰めていくのもいいものだなと思うようになった。特に詩の文章でその差は顕著になる。いくら繊細な翻訳を心がけたとしても、表現に対して言語が持っている「雰囲気」みたいなものを移植するのは難しいということに(今更ながら)気がついたからだ。下記はチェスタートンの『第二の少年時代』という表題の作品に属している一節。

But I shall not grow too old to see enormous night arise,
A cloud that is larger than the world
And a monster made of eyes.

「しかし、私は年を取ることはないだろう、広大な夜が、
この世界よりも大きな一片の雲や、
目からなる怪物などが現れるのを見るほどには」

And a monster made of eyesに表現されているような異様さに、「目からなる怪物」という日本語表現ではまったく追いつけていないことが、それをたとえ正確に説明することが出来なくてもご理解いただけるのではないか。詩というのは解説したところで、ウケなかったギャグの笑いどころを解説するようなものでまるで無意味だ。ほとんどの場合詩の魅力とは絵画を見るような、「なんとなくいいな」という感覚で受け取るものであって、言語化不可能な領域のものであり、たいていの場合じっくりよく考えて素晴らしさがわかるのではなく、触れた瞬間にその素晴らしさがわかる。この感覚の違いが深く理解できるようになっただけで、自動翻訳でない、言語そのもので学ぶ意味といったものが僕にとっては随分大きなものになった。

言葉にはいってみればリズム、音の美しさ、そして見た目の美しさというものがある。日本語の場合は、読めなかったとしても漢字などはなんとなく意味が通じてしまう。そういう意味で、言語としてリズムや音をあまり重視しない傾向があるかもしれない。