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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ドミノ倒し。極端さに比例して物語の速度はあがっていく

金庸を最近ずっと読んでいる。

この人の作品、中国で一番読まれているぐらいで、古典に入りかけているような昔のエンタメ武侠小説なのだが、エンタメの技法がこれでもかとつめこまれていて読むとその技の冴えに感心してしまう。いくつかの精神に作用する設定が物語に与える影響が面白いなと今回は読んでいて考えた。たとえば武侠小説世界では基本的に師匠というのは親と同一で、親もしくは師が殺されたならば命に変えても敵討をしないといけない、それが当然であるし死に物狂いで向かっていくものだという「常識」がある。それは善玉にも悪玉にもあって、主人公たちがたとえば自分の身を守るためにある悪玉を殺したら、自動的に主人公たちの敵が増えるわけであって物語が最初に「ぽん」と押されただけで後は勝手にごろごろと転がり続けるのである。

敵討の文化は日本にだってあるんだから別に中国武侠小説だけの特徴ではないのだが、武侠小説の面白さはそうしたドミノ倒し的な精神世界の掟が敵討にかぎらずいくつも用意されているところにある。それはどうしたらできるのかといえば、たぶん「極端にする」ことで成立しているんだなと。「親の敵だから復讐する」といっても、簡単な説得で「やっぱやめた」となっていたら物語にならない。物語というのは常にそうだが、はじまりには一人の極端な人間を必要とする。仕事がつかれた、上司にはくどくど小言をいわれる、もういやだもういやだ……といっているだけでは物語には(相当うまくやればべつだが)ならないのである。「ふざけるな! 殺してやる!」「ふざけるな! 新しい人生を歩むんだ!」と、動きがあることことそが物語の進行にほかならない。

金庸武侠小説ではみながみな極端な人間だが、それは武侠世界の精神的掟であり常識がそもそも極端であり、その極端な精神性を内包したキャラクタたちがいるからこそ、それに反発するにせよ受け入れるにせよ「みな極端」になっていくのだ。そしてみな極端だからその極端さに比例して物語の速度はあがっていくのである。「親が殺された犯人がわかった!」⇒「くそがっ敵討だ! いくぞおらーーーー!!」この間半日もない。また射雕英雄伝という作品で主人公だった男は誠実、嘘偽りを言わず、武林の掟を忠実に守る男だが、その続編の主人公はそうした掟にことごとく反発する。そのどちらも「すり合わせ」の概念がわからないかのような極端さで、お互いがお互いにひどくズレていくがそれがまた物語を加速させているのである。

キルラキルとかも同様のタイプだと思う。