基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

信じる必要なんかないんじゃないのと思った話

「それでも、僕やあなたは、騙される」のです。 - いつか電池がきれるまで

上記の記事を読んでいて考えたことがある。

神ならぬ身としては「100%正確な釣り判定」なんてできませんし、何でも「嘘じゃないか?」と疑い続けてしまうと、ずっと引きこもったまま死を迎え「どうだ!僕は一度も騙されなかったぞ!」という遺言を残して死ぬ、みたいな人生になるんじゃないか、とか怖くもなるのです。

記事の趣向自体は読んでもらえればすぐにわかるのだけど、この世には嘘をついてしまわざるをえない状況や意図的に嘘をついてしまう状況、意図せずして嘘になってしまう状況があってどんなに気をつけていたとしても、『「それでも、僕やあなたは、騙される」のです。』ということだ。でもどうにもこれ、僕には違和感があるなあ。まるで「信じない」という態度がそのまま「疑う」という態度に直結しているみたいで。実際にはその中間が在るよね。『何かをやろうと思ったら、結局のところ、何かを「信じるしかない」場面というのは出てきます。』とも書かれているけれども、信じるしかない場面なんか、あるかなあ?

たとえば誰かと付き合っているとして、相手が自分のことをどれだけ口頭で好きだといっていても他人の気持ちを知る手段なんてないんだから「わからない」でいいと思うんだよね。それは「疑う」わけじゃなくて、かといって「相手は自分のことを好きだ」と信じるわけでもなくて、「好きだと言っているし、実際そんなような気がするけど、でもそうじゃない可能性だってあるよね」っていう宙ぶらりんの状態が、「それ以上確定的なことを何も言えない」本来の形なんじゃないだろうか。何かを信じる必要なんてないし、何かを疑う必要だってない。わからないものはわからないものだとして棚上げにすればいいだけだと思う。

村上春樹さんは幾度か自身が書き始めた理由について大体次のような感じで語ることがある。神宮球場で彼がファンであるヤクルトの開幕戦の一回裏でデイヴ・ヒルトンが初級二塁打を打った瞬間、小説が書けるという天啓を受けた、と。これも客観的な事実といえば「村上春樹はこういっている」というだけの話で、著者としてのサービス精神だとか、演出でいったのかとかいろいろ考える余地がある。個人的にはまあた面白いふかしをこいているなあこのおっさんはと思うけどそれだって確定しているわけではないし。

不確定なことを棚上げにして「ゆるぎないものとして扱う」というのが僕の考える「信じる」である。村上春樹はこういっている、嘘の可能性もあるし本当の可能性もあるしそもそも嘘か本当かどうかの判定がきわめて難しい事例である、と言葉には出さずとも自分の中に持っている態度こそが「信じない」、というある意味常識的な態度なのではなかろうか。

まあ、「信じた」ことにして物事を進めなけりゃいけないところなんていくらでもあるけれど。配偶者に向かって「君が自分のことを愛しているか愛していないかは、君がどんなに口に出そうが態度に出そうが確定しない」なんていう必要はまったくないわけであって。何度も検証を重ねられた科学としての事象だって99.9999%は仮説だからといって「明日地球の重力が変わるかもしれない」なんてことを頭のなかにとどめながら過ごせと言っているわけでもないし。でも科学だってなんだって99.99999は仮説なんだよ、って「信じること」に常に穴をあけておくのは重要だと思うんだよ。