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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

対人係数

考えていることをだらだらと書いていく。

自分の子供時代のことをよく考える。あんまり覚えていない。同一性が危ぶまれる。昨日何を食べたかもよく思い出せない。朝自転車を立体駐車場に入れるのだが、その入口が4つあって毎度毎度人が並んでいないところにいれる。さて、10時間後そこに再度戻ってきた時に自分がどこに入れたか思い出そうとしても思い出せない。毎日毎日同じように入れている画像が頭のなかに残っているから、それがいったいいつの朝だったのか思い出せないのだ。過去が圧縮されてしまっている……。

と、そんな話がしたかったのではなかった。親が本を読まなければ子供が本を読むはずがないという意見について思ったこと。それはたしかに正しい側面があると思う。結局のところ人間一番力を発揮するのは自発的に、自分が正しいと思うことをやっている時だ。読まされていたのでは到底無理で、親が楽しそうに読んでいる姿をみてはじめて「そんなに楽しそうなら、自分でも読んでみようかな?」と自発的な読書傾向が生まれる、というのはひとつのケースとして当然真っ当なものだと思う。

自分の子供時代を思うと、親はまるで本を読まない人達だった。本棚もなかったぐらいだ。それでなぜ本を読み始めたのかと思うと、どうも一人で遊ぶのにそれぐらいしかなかったから、だと思う。当時ゲームも買ってもらえず、かといって他人と遊ぶのも嫌で嫌で仕方がないし、そもそも「おでかけ」するのが嫌で嫌で家から一歩も出たくなかった、今から考えるとちょっと何かの異常が認められそうな子供だったから、本を読み始めたのも必然だったのだろう。

僕は人間というのは生まれで半分以上は決まっているものだと考えている。たとえば顔や身長などが両親の影響を受けているのは明らかなのだから、それが持病や頭の能力に関係しないはずがない、というところまでは一般的な感覚の延長としてわかるだろう。そして実際に一卵性双生児で、かつ生まれた時から別居状態という「共通する遺伝子だけを持っている双子」の能力値調査がある。これで類似率が通常よりも明らかに高ければ「育ちとは無関係な生まれの相関性」がある程度わかる。

身長体重については80%以上類似しており、IQについては72%の類似率だ。身長体重よりもIQの方が「育ち」の要因が大きいのがみてとれる。それに僕は知能判定法としてのIQについてまったく当てにならないと考えているから、実際はそこまで「知能に類似がある」とこれでいいたいわけではないのだが、まあ少なくとも人間が生まれ持った基本的な性向というものはあるのだと、そういう話がしたいのだよね。ちょっとズレるかもしれないけれど、生まれつき障害を持っていたらその時点でその後の人生の方向性はある程度方向性づけられてしまうわけで。もちろん性別や体格でも。

「運命」なんて言葉をだから僕は思ったりする。胡散臭くなるから滅多に使わないけれども。男であるか女であるかといったところからして既に自分で決められないし、その後の基本性向も大方決まってしまっているのだとしたらそれを運命と呼ばずになんと呼ぶのだろうか。で、僕がずっと考えているのは、僕が好きだと思っている本を読むことだとか文章を書くことだとかも、別段自分が自ら発見したわけじゃあなくて元々「他人と接するのが苦痛である」という基本性向から出てきた消去法的に選択されたパターンのひとつでしかないのかなあということだ。

かっこよくいえば「運命」であるがかっこわるくいえば「消去法的に残ったものを好きだと思い込んでいる」という感じか。充分に楽しんでいるし、だからショックだとかそういうことがいいたいわけでもない。そもそも日本に生まれなかったらまるっきり違う状況になるわけだから何をかいわんやといったところだ。誰しもがある程度、あらかじめ自分の人生の道を決定づけられている。そのこと自体に気がつくことができれば、反抗も可能だろうが、道なき道を行くみたいな感じで端的にいってエネルギーが余計にかかることになる。

たとえば僕は人間が嫌いなのではなく単純に人と時間を共有することにたいしてあまり積極的になれないんだな。摩擦が大きすぎるというか。誰もが多かれ少なかれ、人と人が会って話すというのはエネルギーを消耗することだと思う。しかしその摩擦が少ない人とたくさんある人がいるのではないか。人と会うと、友人同士とでもめちゃくちゃ疲れるからなあ……。「今日飲みに行こうぜ!」なんて不可能で、10年来の友人でも一週間先にしてもらってそこに向けてゆっくりと覚悟を決めていかないととても心の準備ができない。一方で気軽に「今夜飲みに行こうぜ!」といえる人達がいるわけだ。

勿論僕がそれに無理に付き合ったり、自分がそうしたタイプであることを演じることもできるだろうけれども、それは大変疲れることだ。そこで自分の性向に向き合って、正直に生きていくことがエネルギーロスの少なく最大幸福へ向かう道のひとつだとしたらあとは自分の前に広がっている道を肯定的に受け入れていくか、あるいはこうなるしかなかったのだと否定的に生きていくかというところなのかなあ……とかいろいろ考えている。