読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ごつごつしているかぬるぬるしているか

米国で書かれたノンフィクションなり小説なりを読んでいて感じることのひとつは、やけにごつごつして区分けされているなあということだ。逆に日本人が書いたものはどこか割りきれているというよりかはぬるぬるして混ざり合っているようなそういう感覚の違いがある。もちろん日本で書かれたものだってごつごつしていたりすることもあるしその逆もまたしかりなのだが、気のせいでは片付けられない確かな違和感というものがある。文化と伝統と国家レベルでの状況とそれから雰囲気といったものがすべてちがうのだから「それはこういうことでござい」と一言で表現できるはずもないのだが。

ごつごつしている感覚のひとつは、彼ら彼女らにはどうもいつも「従うべき規範」のようなものが各々に確固としてなければならない、という見えざるルールが日本とはまた違った意味で強いように見える。規範とは概念であると言い換えてもいいが、たとえば女性差別をしてはならぬ、というのはまあ至極一般的な意見だと思うが、「女性が専業主婦だなんていうのは女性の役割を押し付けている」と言わんがごとくのような息苦しさがあるように、本を読んだり映画をみたりしているだけなのだが思う。

ようは専業主婦だろうがなんだろうが好きにやってるんだったらいいはずなのだが、なぜかそこに「かくあるべし」な姿が設定されてしまっているというか。不平等をなくそう、という取り組みについては日本などより余程進んでいるし頻繁に取り上げられる。Lean inなどを読めばその状況がわかるし、その取り上げられ方もまた派手なものだ。だけどそれはどこかいきすぎてるんだよね。「女性も自己実現のために「働く」ことこそが理想なのだ」みたいなさ。

日本の大事なことが明文化されずに、理想が高らかと掲げられることもなくなんだかよくわからないうちに規範っぽいものが形成されていてこれまたなんだかよくわからないうちにみんながある程度守っているという残念な感じも嫌だが、「かくあるべし」という概念がきっちりしすぎているのも嫌だなと思うわけだ。そうした共通概念とでもいえるものがある(あるいはあった?)のは、人種も宗教もばらばらな人間たちをある程度まとまりをもたせるためのひとつの手段なのかもしれないと思う。

とかそんなことをいろいろ読みながら考えている。なんかね、どれを読んでいても英語だと「だいたいこういうことをいうんだろうなあ」ってのがある程度わかってしまうんだよな。カテゴライズがしやすいというか。