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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

運不運とコントロール可能領域

思いつきを適当に書く。

運不運で決定付けられていることと自分でコントロール可能な領域を区別する能力が低いと人生苦労する。

たとえば宝くじを10年も結構な数買い続けているのに全然当たらない! 不運だ! と嘆いている人がいたとして、大抵の場合はたんなる雑談のネタであり本気ではないと思う。でも仮に本気いっているのだとしたらその人は不運なのではなく単にバカなだけだ。

宝くじだとわかりやすいが「不運だ」が口癖のようになっている人は注意した方がいいだろうと思う。大抵のことは運に頼らずに時間をかければなんとかなることが多い。問題は時間である。宇宙飛行士に5歳の頃になりたいと考えたのであれば充分可能性はあるが、50歳の時点で考えても難しい。野菜を育てて収穫するように、あらゆる場面で投資と収穫の構造は見られる。もし何か大きな収穫を得たいと考えたのであればそれなりの投資が必要であるというわけだ。明らかに失敗するとわかっている事業に金を突っ込んで、結局失敗して「うまくいくかとも思ったのだったが不運だった。などと結論付ける人も居るがこれも事前に少しでも調査すればそれぐらいわかることだ。

運不運で片付けられる問題は少ないようにも思うし、定義の問題によっては随分広くなるような気もする。

逆にコントロール不可能なことはなんだろう。まずは選べないことだろう。自分が何処に生まれるかは選べない。日本に生まれて日本で育ったのだったら日本語が喋れて読み書きができる代わりに他の言語を覚えるのは苦労しなければいけない。もっと文明が進んだ時代に生まれて火星にいきたかったと思ってもこれも無理だし、火星に行きたいのに火星に行けないんだからこれは不運だ。五分五分の賭けに負けたら不運か? 不運かもしれない。だがその五分五分の賭けを誰が保証してくれているのかというところが不確定なので運ではない可能性が高い。

一方で先の例でいえば宝くじを買い続けて当たらない、不運だというのは馬鹿だと書いた。しかしこれ自体も運不運のうちかもしれない。ようは確率論がきっちりわかっており期待値を出し自分が手を出しているギャンブルが負けて当たり前なのだと「わからない」こと自体が運不運のうちかもしれないということだ。一般的な傾向として高学歴な親の元に産まれた子供は高学歴になり年収もソレにともなって上昇していく関係にある。※『学力と階層』を参照 

自己責任論争が時折巻き起こる。「お前がそんな目にあっているのは努力してこなかったお前が悪い」というわけだ。しかし生まれの時点ですでに「努力をできるかどうかの格差」がある。高学歴の子供は高学歴などという以前の問題で、人間の能力は6割方遺伝子に規定されている。もちろん4割は各々違った発現の仕方をする※『エピゲノムと生命』を参照 からすべてが規定されているわけではないが。

現代は発達の速度が早すぎて知識のストックよりも知識を入れ替え常に最新の情報にキャッチアップしていく、つまり継続的に努力する能力が価値を持つ。この能力を持つか持たないかが生まれの時点である程度決定されているのだとしたら人生は最初からその能力値さえもが運不運で決まっておりコントロール可能領域など規定するのは不可能ではないか。

「それは運不運の部分だ」ということさえ諦めがついてしまえばあとは残った手持ちの手札でたたかうしかないので話はわかりやすい。あえて除外していたがたとえば生まれつき両手がないなどというのも運不運のうちだろう。自分ではどうすることもできないことだから。ちょっと最初に想定していた結論にうまく流れを繋げなかったんだけど、ようは「この問題は運不運の問題であり仕方がなく、ここからはコントロール可能領域だからがんばろう」という意志を持ってやれば人生はコントロール可能領域においてはコントロール可能なのであるということだ。ソレが理解できずにコントロール可能領域なのに運不運の問題にしてしまうと人生は決して自分の思い通りにならない。