基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

言葉の使い方について

ちょっと前にこんな記事を書いたが⇒褒めといたほうが無難だ - 基本ライトノベル 自分のことを振り返ってみても結構褒めている割にバカにされていたりケチをつけられたりしていることをだんだん思い出してきて「あ、やっぱ褒めても駄目だな」と気がついてしまったので謹んで訂正させていただきます。いやーぼくは自分の文章に対する人の反応をみないようにしているか見た瞬間に忘れるようにしているからた気がついていないだけでしたね。ただ褒めるよりけなすときのほうがツッコミがくる確率は高いので褒める時よりケチをつける時はより注意しましょうという結論部には特に変わりない。


で、別件でまた「褒める」ことへの面白い記事があった。この方の記事⇒毎日ムキムキ 『スプラトゥーン』褒めすぎ問題。あるいは、感情を素直に吐かないことによる過剰表現の泥沼 そうそう、僕もゲーム動画みてすプラトゥーンすごい面白そうだなーとは思ったものの、それを過剰に褒める記事は「はあーそうですかー」と腑に落ちないものを感じていた。これは珍しく褒めている記事をくさしている文章だが、「具体的に何の記事について語っているかは書かない」など防御を高めに「褒め言葉はいい加減でも許されるのは問題だろう」と問題提起している。とはいっても人間が肯定より否定の方に強く反応するようになっているのは自明のようにも思われるし、褒め言葉の方が相対的にみて否定よりもいい加減で許される傾向を変えるのは難しいだろう。

ここからは記事はほとんど関係なく文章を書く上で考えていることをS.I.ハヤカワの名著『思考と行動における言語』を援用しながら書く。重要なのは書く時にできるかぎりそのまま、素直に書くことだろうがこれがまた難しい。コトバは表現しようとしている対象物そのものではないのだが、多くの場合これは誤解される。コトバは比喩的にいえば現地に対応する地図である。対象そのものではないが、それに対応するものだ。どんなに地図が美しく描かれていても、それが現地の構造を正しく示しているのでなければ旅行者の役にはたたない。レビュー分の場合の問題点は実際に現地までいって地図の正当性を確かめる人があまり多くないこと、それ故きらびやかに褒めたてたところで殆どの人はその妥当性の検証は行われないこと。ましてや今回のゲームはまだ発売されていないものであり、検証不可能なものである。そういう意味で「無責任」であるし、上記の記事を書いた方も一応ちゃんと批判しておくか、と行動にうつされたのであろう。ご立派な態度である。

書き手側はどう注意したらいいのか

もちろん書き手側が正確な地図を書ければそれにこしたことはない。だが実際にはわれわれはみんな、多くの役に立たない知識や間違った情報、あるいは主観的に歪めた情報を自分の中に持っており、それでもって地図を作ることになる。好きなモノを貶められたらその理屈が通っているか通っていないかの判断に入る前に反発したくなるものだし、Aは○○であると思い込んでいるとなかなかその枷を外すことはできない。

もしある程度まで正確な地図を書こうとしたら、いったいどのようにしたらいいのだろう。極端に思われるかもしれないが、基本的には次の規則にしたがうことができれば望ましい。1.それが実証可能であること。2.できるだけ、推論と断定を排除すること。 たとえば「かれは怒っていた」と描写するのは推論であり断定である。実際には怒っているかどうかはわからない。正確には「かれはテーブルを拳で叩いた。バカ、アホとこちらに向かって言った。かれはこちらにiPhoneを投げつけた」と書けばこれはひとつの事実だといえよう。ふらふらと蛇行する車をみて「飲酒運転だ。いやだなあ」と思うのは普通の反応かも知れないがそれもまたただの推論である。

まあ、世間一般にあふれていてまるで呼吸するかのごとくみな推論を行うので、なにも「推論を文章から完全排除せよ」などといっているわけではない。推論をしなければ文章など成り立たない。問題は「自分はこの部分では推論をしており、それについては間違っている可能性がありえる」とする態度でありその結果「断定」も必然的に少なくなるだろう。何より最初から「○○は傑作である」のように不用意な断定をおいてしまうと、あとの記述はすべて最初の断定に辻褄をあわせた形で展開しなければいけなくなってしまう。その結果思ってもいないことを書いたり、主観的な歪みを最初の断定によせた内容で書いてしまったり細かい観察の結果を無意識的にはぶくようになってしまう。

注意深く結論を避け、その代わりに観察した事実をまず書く。もっとも迂遠な言い回しに結論がいつまでたっても出てこない文章なんか学校のレポートだって読んでもらえるか怪しいもんだが、コトバは対象物そのものではなく、つまりは完全に偏らない文章を書くことなど不可能であるという当たり前の事実を認識していれば常に緊張感を持った文章書きライフが得られるであろうと思う。