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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

思い出のマーニー

さっぱり面白くはなかったが途中で出たいと思うほどつまらなくもなく。一言でいえば退屈な映画だが暇つぶしにはなるというか。

受動的にみていたら退屈だったので仕方なく空想をしていた。コミュ障アンナがこの先成長を続けていったら、きっとまともな企業には就職できないからアニメーターになるんだろうなあ。絵柄が完全にジブリだからジブリに入社してこき使われるんだろうなあ。などなど、仕事に追われ睡眠時間もない中、やけくそになって絵を書き続ける大人になったアンナを考えていたらなんか終わっていた。僕はこういうどうも現実にウマく適当できない人がナニクソと奮起していく話が好きなのだが本作はそういう奮起して突進していくような話ではない。でもきっと成長し経験を積んだアンナはナニクソと邁進できる大人になっていると信じたい。ってそんなことはまったく本編に関係がなかった。

わりと自分がつまらなかった時でも面白いといっているひとの意見はそれはそれでわかるということが多い。今回はよくわからないな。ちょっと考えてみるか。つるつるして何のひっかかりもないまま終わってしまった感じ。たくましく成長したって感じでもないし。いや、あれは成長したってことなんだろうけど。成長の妥当性に当たる部分にまるで納得がいっていないのが面白いと感じるか感じないかの分岐点なのかな。「アホみたいなこといって空想につかってるうちに、考え方を変えている。気持ち悪い変化の仕方だし、変化した後のアンナも気持ち悪い。」というのが正直な感想であるが、ここが真っ当だととらえるとあの変化の仕方が「良かった良かった」と捉えられるかな。

空想につかってるうちに、考え方を変えているというのも、もちろん一瞬で切り替わっているわけではない。預けられた先の親子の類まれな包容力と自然、完璧な空想具現化少女であるマーニーが最初は彼女をじんわりと癒やし、その後空想具現化少女マーニーを接点にして現実の友達も出来、それがまた彼女を癒やす。問題は空想から現実に戻れるのかどうかだ。空想の居心地(マーニーは空想少女だからすべてにおいて完璧のはずだった)は良いにきまっているから、本来的に考えればアンナは空想に囚われたまま戻ってこれない可能性もあった。アンナはしばらく現実と空想の間を行ったり来たりすることになる。

しかしマーニーが実は複雑な、現実と空想の入り混じった少女であることがキイになっている。完全な妄想ならズブズブとおぼれていくが、現実の要素が混じっているがために、アンナは裏切られる。相手は自分だけをみているわけではなく、相手には自分にはよくわからない事情があるようだと気がつく。これが作劇上うまいのは自然にアンナを現実に返す仕組みになっていることだろう。そしてアンナは裏切られたーーーうえーーーんといって文句を言いに行ったらごめんよーーーなんかいろいろ事情があるけどあなたのことが大好きなんだからねーーーといわれる。現実とは、現実の存在とはうまくいかないものである。一番最初のシーンでアンナが自分の絵を先生にみてもらっていたら(見てもらうのは恥ずかしいが、見てもらえたら褒めてもらえるという確信があり、それを期待していた)彼女はたぶん喘息の発作をおこさなかっただろう。

親は死に、その後のもらわれていった先の親は愛情を注いでくれていたが、彼女自身がそれを信じられないでいる。アンナが求めているのは自分自身が信頼できる愛情や、あるいは愛情とまではいわないものの単純な肯定であるが、物語はそれを最初にささいな偶然からとりこぼしている。現実=うまくいかないもの、最終的にアンナは、マーニーという妄想性と現実性の入り混じった存在(マーニーはアンナを裏切る。理想の、自分だけを見てくれているはずだった少女から、仲の良い男子がいて自分より優先されるかもしれないといった不安定性を得て、日記が実在することなどによって最初はただの妄想だったマーニーは次第に現実性を帯びてくる)から一番最初にとりこぼした、愛情と肯定を与えられることで「現実の」欠落がうめられ、アンナは「うまくいかない現実というもの」を受け入れられるようになる。

アンナとマーニーの和解のシーン後、アンナは「言葉にはされない他者のやんごとなき事情」、「うまくいかなさみたいなのが誰にだって存在するのだ」ということを慮ることを覚え、だからこそ親がなかなか言えなかった秘密のあれやこれやを肯定し、受け入れることもできるようになり、自分自身が放った「うまくいかなかったコミュニケーション」ものちの再コミュニケーションによってリカバることができるようになる。最初の欠落部分がここで埋められ、物語は閉じるように感じられる。

マーニーのあの一瞬の変遷……というより、あの一瞬にすべてが詰まっているわけではなくて、積み重ねがあってこそだから、あの積み重ね自体に説得力があると感じられた人と、こいつらは何オママゴトみたいなことやってやがると思った人の間で評価が割れているのではないか。「感情移入できたかできないか」とはまた別の問題のような気がする。言葉にはできるし、納得もできる。けどやっぱり感覚的なところでみているときは「茶番だな〜〜」としか思えなかったのがつらいのだ。

脚本については、いろいろと溜めがないけど、むしろそれはそれで味になっているような気もする。あの程度のオチを劇的に演出されてもちょっとどうかと思うような大したことない話だし。小出し小出しにして、ダシがしみこんでいくようにして話がすすんでいってあーやっぱそうだよねーちゃんちゃん、なんだかいろんなことが丸くおさまりました、という。小出しにされる情報が極端に少なく、総量としても物足りないが、出し方自体には見どころがあるから「面白い」でも「つまらない」でもなく「退屈だ」という感覚に繋がっているのかなと今思いつく。