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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

Fate/Plus 虚淵玄 Lives 〜解析読本

神林長平インタビュー目当てに読んだ。

僕自身は別にそこまで虚淵玄作品が好きなわけではないしゲームも全然やってない。世界観をパロった二次創作的な物は面白いと思うけど、まどか☆マギカとか、Fate/zeroとか……でもブラックラグーンの小説は全然おもしろくなかった。なのでまあ、レビューとか解説とかは流し読み。この本が良い本なのかどうかは知りません。やはり神林長平まどか☆マギカ解釈が良かった。

氏の解釈はいつも自分の創作観と相手の創作観の殺し合いのようになっていて、俺の創作観からいえばこの作品はどうなのかを明確に打ち出してくるので非常にわかりやすい。それがまた的はずれな俺流解釈ならまあ残念な感じだけど、毎度毎度物凄く頷いてしまう。今回もほぼ神林評価と僕の評価は一致していて、しかし僕がうまく言葉に出来ない部分が明確に言葉にされていたところがあって気持ちが良かった。

一言で言えばまどか☆マギカは三作目の長編映画としての叛逆の物語は終わりの決着が弱かった。何も終わっていないというお話。それはまあ商業的な要請から「なんとかして後に続けられるような形にしなければならなかった」ということはあれど、明らかにその苦渋のわかるねじ曲げられた結末だったと思う。ここで終わらせられていれば、本当の傑作として幕を閉じられたかも知れなかったのに。僕がうまく言葉にできなかったのはそれがどういう風にねじまげられていて、どういうふうに閉められればよかったかというところにあった。⇒[http://huyukiitoichi.hatenablog.com/entry/2013/10/26/175016:title=劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語 - 基本ライトノベル]

できるかぎり短く神林長平解釈をまとめていこう。これはどちらかというと今後僕が神林作品を読み解いていくための前提資料とするためであり、ここに書いてあることをそのまま神林長平のまどか☆マギカへの見解としないように注意されたし。短く刈り込み意図が変質してしまっている可能性が大である。

まず新編は、「自分には認めがたい宿命から逃れるための新たな概念を生み出す」話になっている。で、神林長平先生にいわせればこれは「自分の想い」と「世界」があったときに、自分の想いにたいして決着をつけるのでもなく、世界、つまりはまあ環境を改編するのではなく「自分自身が世界になってしまう」ことであり、物語のルールから逸脱しているのではといっている。

「自分自身が世界になってしまう」ことは物語のルールから逸脱していることなのか? そもそも物語にルールはあるのか? といえば、そこは考えなければいけないだろう。ただほむら自体に何らかの意味で「決着」がつくことが物語の終わりなのだとしたら、世界自体になってしまった時点で物語の終わりはうやむやになってよくわからなくなってしまい、物語は完全にやめどきを逸した=物語のルールを逸脱した、というのはいえるだろう。

神林先生は一貫して「リアル」と「フィクション」の効用について語ってきた。リアルとはあるがままの現実であり、各々はフィクションによってあるがままの現実から身を守る。本作で言えばほむらが偽の都市をつくって閉じこもるのが外部の脅威(リアル)から実を守るためにフィクションという防護フィールドを貼った状態であると考えられるし、我々は誰もがほむらのようなフィクションフィールド、自分にとって都合のよい幻想やつじつまのあう世界を空想して創りあげて身を守っている。

人間は自分の見たいようにしか世界を見ない、といった主観の問題というよりかは、もっと根源的に我々は光が目に入って交差して擬似的に立体を頭のなかで構築して認識しているように、目に映っているのはいったん人体機能によって編集された映像であり、赤外線など現実に存在しているのに目に見えないものは予め省かれている。つまりただ生きているだけで我々はフィクションと共に生きているのだといえる。もちろん我々の空想フィールドは盤石ではなく、常にほころびと改変を迫られているし、時に3・11のような大規模なリアルな脅威は我々のフィクションフィールドに著しい影響を与える。

こうしたものを総称して神林長平先生は「リアル」と呼ぶ。空想フィールドを突き破るようなリアルの侵食にたいこうして我々はフィクションを作りなおしたりより強力なフィクションを発生させたりする。で、以上のような解釈にのっとっていえばほむらの都市というフィクションフィールドは外から瓦解させられ、そこで彼女がとった選択は新たなフィクションによってリアルに対抗することではなく、かといってリアルを受け入れることでもなくて、自分が新しいリアルになり、フィクションであるまどかに干渉することだった。

で、此処から先はちょっとよくわかってないんだけど、リアルな存在になったのなら、もう「なにもできない」はずだろう、なのにほむらは虚構であるまどかに喧嘩を売り、自分が創作した人物にたいしてそういうことをするのはおかしいしドラマツルギーが崩壊しているという。これはまあ、リアル、ルール創造者になれるのだとしたらその世界はなんでもありであり、そもそもリアル、現実はピンポイントにフィクションを攻撃してくるものではないという前提があるからだろう(地震などは明確な意図を持って攻撃してくるわけではない)。

あの作品に抜け道があるとしたら、ほむらは決して完全なリアルになったわけでなく、どちらかといえば半リアルみたいな存在で、だからこそ最後のあのよくわからないあやふやな展開があり、次に繋がっていくのだとは思うが、それは物語の強度としては退行しているだろう(ここは僕の意見)。