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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

文章の書き方について

いまふと思い立って村上春樹のエッセイを中古で買いあさって読んでいるところなのだけど、やっぱり村上春樹のエッセイは面白いなと思う。

村上春樹のエッセイを読むといつも面白いなと思って、このエッセンスを自分の文章の中に取り込みたいものだなと思う。だって素敵だと思いませんか、村上春樹が語るようにして本について語ることができたら。どこかスカしたような感じで、わかるんだかわからないんだかよくわからない比喩がわんさか出てきて、目の付け所がそれなりに新しい。決して大上段にふりかざすようなものではなくて、それよりはむしろ常に自虐的、ぼやき的であり、ユーモラスである。

そうした村上春樹的なふわっとした感じをなんとかして取り込めないものかなあといつも思うのであるが、まあなかなかうまくいかないよね。だいたい僕自身には比喩能力もなければ視点の面白さもなし、何より文章の面白さについて村上春樹をコピーできるはずがない。ほとんどエッセイは全部読んでいるし(今回も再読)活かそうと試みたことも一度や二度ではないはずだけど、そりゃあ村上春樹のように書けるんだったら仕事が殺到するだろうよ。でもずっと読んだり模倣しようとしたりすることで、七味を一回ふりかけたぐらいの微妙なエッセンスを取り込めればいいなと思ってやっているのだ。

とまあこんなふうにわりと表には出さないし、言語化できるような単純な部分でもないのだが、文章をなんとなく自分の理想とする方向へ誘導できないのかといろいろ実践しているわけである。ものすごーく微妙な部分なので明確に文章術的なところに還元できるものではなく、「もっとふわっとさせたいぞ」とかなんかそんな感覚レベルでの話。そしてそういう不毛なことをしていると「なんでこんなことやってるんだろう?」というか文章って今までどうやって書いてきたんだっけ? 今までけっこう変化してきたのかな? と過去を振り返りたくなってくる。

というのもほんの一年ぐらい前まではもっと文章スタイル自体はまったくかたまっていなくて、です・であるが混在していたり序盤フランクに始まったのに後半シリアスになったりと無茶苦茶だったのだが、最近そのスタイルがある程度かたまってきてしまって、ちょっといや〜な感じがしているんだな。いったんスタイルがかたまるのは当然いいことなのではあるだろうが、成長とか変化みたいなものもまたなくなってしまうのではないだろうか? なんかうまくかけなくなっちゃうんじゃないか?(いや別に今がうまく欠けているというつもりはないが)とかとか。

スタイルがかたまってきてしまったこともあって「文章の書き方」みたいなものを整理するためにいったん書いてみようかな? と思ったけれども、恐ろしくなってやめてしまった。ようは割合こんなのはノリでしか書いていないのであって、もちろんそこにはなんとなく思っている方法論的なものもあるんだろうけど、いったんまとめることによって「そうか自分はこうやって書いていたのか」と納得してしまうのが怖いというか。もっと微妙な感覚的にやっていた部分が、「そうか自分はこうやって書いていたのか」という納得によって切り捨てられてしまうのではないか? 

考えを文章化することで失われてしまうもの

重ねて言うように別に大層な文章を書いているわけじゃあないんだから切り捨てられてしまっても問題ないのだが、でも「考えを文章化することで自己催眠のような状態になって失われてしまうもの」はありそうだなと思った。それは別に微妙な部分だけの話ではなくて、思っていることはもっと複雑でぐちゃぐちゃしていたのにすっきりと文章にされることで「ああ自分はこう思っていたんだ」と自分で自分を納得させてしまうようなことも含まれる。ネット時代特有の現象かもしれないが、みんなテキストに重きを置きすぎているんじゃないか?

たとえばネットとか見ていると基本文章ベースのやりとりだから「書かれていること」を相手の真意だと受け取ってしまう傾向が強いが、絶対そんなことありえねーよなと。ようは他人に対してかなり失礼な物言いを書いてしまう人も多いが「それが本心だ」と言われると「いやそうじゃないんじゃないの?」と思うし、自分の中にかかえているものを正確に情報を落とさずに文章に出来る人なんているはずがないんだから、テキストにそんなにこだわったってしょうがねーじゃんと思うのだ。そこにあるのはいつだって不完全な感情や思考の残骸である。なぜそんな残骸を前にして「お前の言っていることはおかしい」とか「こいつはひでえやつだ」とか「あいつにディスられた!」みたいに、書いてあることをそのまんまみんなまともに受け取ってしまうんだろう?

最近の「クソリプ」だとかも、晒しあげされているものを読んでいると「なにか必死に伝えたいことがあったんだろうけど結果的にクソリプとして晒しあげられて可愛そうだな」と感じるものがいくつもある。不用意な言葉を発している人をわざわざ検索してからみにいくような人もいる。そらこだわっている人からすりゃあ「いやそれは違うぞ」と思うかもしれないけど、大多数の人間は言葉にそんなにこだわってないし、能力自体ない。もちろんだからこそ全部読み取る努力をしろ、なんていうつもりはないんだけど、文章ベースのコミュニケーションでお互いがお互いに正確に気持や分析をトレースして文章化できるはずねーんだからそのあたりのこぼれ落ちた部分は考慮しないとろくにコミュニケーションなんか成り立たないだろうと思いながらネットの揉め事をみて近寄りたくないなあと思う日々であった。