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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

世界は自分が認識していたよりもずっと広いのだという衝撃

ヴィンランド・サガ15巻が出て、読んで、これは僕の中では完全にSFなんだなあと思った。

SFの定義なんて実際のところどうでもよくて、僕だって別に何か特定のものを教義として考えているわけではない。その時々で考えることも違うし、適用する内容も違う。だからこれは自分の中でもいくつもあるジャンル定義の一つ、与太話として書いておきたい。

小さな入り江に生まれて 父さんと母さんと兄弟たちと羊と家 「世界」といえばそれで全部と思ってた
でもときどき 「世界」の外から船が来る

『小さな入り江に生まれて 父さんと母さんと兄弟たちと羊と家 「世界」といえばそれで全部と思ってた でもときどき 「世界」の外から船が来る』 というグズリーズの独白から始まる106話は、レイフが砂浜に「世界」を書いていくことで「自分の中の矮小な世界が一瞬にして広大な世界認識に置き換えられていく」衝撃をありありと描いていて、涙がとまらなかった。僕もまた、そうした衝撃を数々のSFから受けてきたからだ。自分の中の常識がことごとく破壊され、あっという間に拡張されていくような感覚──自分で勝手に構築していた矮小な世界は、想像力によって果てしなく拡張できるものであるという実感は未だに根っこの部分に巣くっている。
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グズリーズは「レイフの世界」の広さが自分のそれとは全く異なる事を知って衝撃を受けているが、その「レイフの世界」さえもまだ矮小な物であるのだという「世界認識の未完全さへの認識」こそが、限界のない想像力の必要性と探究心を起動させる。何度も何度も実感してきたことだけど、幸村誠という漫画家はやっぱり物凄い。今でも週刊少年マガジンでヴィンランド・サガが始まった時の衝撃をありありと思い出せる。「こんな異常なクォリティを週刊で書けるのか!?」と思って、結局やっぱり無理だったわけだが……。

非常にあやふやなこういう世界認識の感覚を持っているか否かを僕は勝手に「SFの目を持っている」という。このSFの目を持っているか否かは、話してもわかるし、小説家なら作品を読めばだいたいすぐにわかる。だからSFの目を持っている人間が書いたものはたとえサイエンスの要素がまったくない歴史物であろうが現代物であろうがSFなのだ、と勝手に考えている。これは特に人に話をしたり、主張して納得させるような客観性のあるものではないけど、個人的には大事に思っている指標のひとつである。

ヴィンランド・サガ(15) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(15) (アフタヌーンKC)