読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

うまくなるのは文章なのか

なんか最近こっちをあんまり更新していないが、どうもこれまでこのブログを更新させていたのはストレスからくる怒りのようなものだったらしく、今はほとんどストレスがなくなったので特に噴出するものもなくなってしまったようだ。まあそうはいっても放置するのも寂しいし書きたいこともいろいろあるから、たまには更新していきたい。

先日『基本読書』の方を更新していて、記事数が1900を超えていることを発見した時に考えたことである。自分がいつブログを始めたのか、何月何日に始めたのかを覚えてないので(調べればすぐにわかるだろうが……)何年と何日書いたかは知らないのだが、とにかく1900記事は書いたようである。なかなかの数だと思う。そして思うのは、はたして文章はうまくなっているのか? というところだ。

主観的にも客観的にも文章はうまくなったと思う。ただその「文章」とは何なのかという問題である。書き始めたばかりの自分と、今の自分がよーいどんで同じ本を読んで、今文章を書けと言ったら今のほうが書いている自分にとっても面白く、読んでいる側にとっても意味が通っているものが書けるだろう。だがそれが「文章がうまくなったのか」というと、ちょっとよくわからない部分があるということ。

文章とは見て、読んで、考えたものを文字という形で出力したものである。レビューであれば、ある本を読んだ、その本を読んで、その本からどう情報を抽出するのか? という思考プロセスから始まる。そしてその抽出した情報のうち、展開するのはどれとどれで、読んだ人間に伝えるべき情報はどれなのか? 読んだ人間に効果的な、するすると頭に入ってくる情報の並べ方はどうしたらいいのか? という、実際にアウトプットされる前段階の思考や構築こそが「文章の本質」なのであって、実際に吐出された文章がどうだとかは「うまくなったとはいえないのじゃないいか?」と思う。

そらまあ「非常にという形容を使い過ぎだから削除しよう」とか、「まあ」使いすぎだから削ろうとか、そういうレベルでの気をつけるリストは増えてきているから、そういう意味では文章はうまくなったともいえるのかもしれないが、それはまあ小手先のものだからなあ。僕がうまくなったのはだから、読むこと、それから頭のなかで構成すること、そして情報の並べ方で人にどのように伝わるのか、その脳内推敲力とでもいうべきもので、単純に「文章力」と表現される言葉のなかにもいろいろな項目があるのだなということだ。

そして当然ながらまだまだ満足できるレベルにはなく、もっと練習しなければならない。文章だけで超えていけない場所があるのならば絵でもグラフでも使わなければならない。今はそういう気分である。