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基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

うまくなるのは文章なのか2

さあ、昨日だか一昨日だかにうまくなるのは文章なのか、いやいや文章力といってもいくつも分類があり、単純な文章力といったものは存在しないのではないかというようなことを書いた、と思う。読み返していないからわからない。

それじゃあ本当に単純な文章力なんてものは存在しないのかといえば、これはちゃんと存在していると思う(ひょっとしたらこの前の記事を否定するようなことを言っているかもしれない)。それはたとえば筋力のようなもので、書き続けることで基本的には身についてくる力だと思う。小説の書き方講座、文章の書き方本などこの世にはありふれているが、あまりこの点に触れている本は読んだことがない。それはようは、こうした筋力は本を読んだからといってつくものではないからという側面が大きいのだろう。「努力しろ」とだけ書いてある本があったら人はそれを壁に叩きつけるであろうから。

それではその文章の筋力とも呼べる物はなんなのかといえば、これは基本的には加速度と、コントロールであると思う。野球で言うピッチャーみたいなものですね。その中でも特に問題なのは文章をコントロールする力だ。我々は普段普通に喋って、Twitterに投稿などしているから文章を書いたり言葉を発することをそれなりに簡単なことで、自分にはそれができるのだと思う傾向があると思う。そりゃもちろんうわあこの人はすごい文章を書くなあという人はいて、その人のようには書けないなあと思うこともあるだろうが、それは多くの場合は前回更新にいったような「何を見ているのか」「どのような順番で、どのように加工して情報を出力するのか」といった文章を書く以前での能力の問題である。

一方で純粋に文章をたくさん書くとなると、突然大変な目にあう。たとえばたかだか5000文字の分量だったとしても、それだけの文章を「あああああ」の羅列などではなく、ちゃんと自分以外の誰かに何らかの意味のつながりとして受け取ってもらいたいと思った時、それを制御するのは実は結構難しいことだ。なんか1パラグラフ目で言っていることは読み返してみると意味がわからないな、とか前段と後段がまったく意味がつながってないなとか、矛盾しているな、とか文章を破綻させ、一貫性を失わせる罠は「たかだか5000文字」の中にいくらでも潜んでいて、それら書くたびごとに状況が変わって立ち現れてくる無数の問題を「叩いて叩いて叩きまわること」こそが文章を制御するということであり、これは方法論化できるようなものではないのだ。

むかしお遊びで書いたことがあるぐらいだから僕はよく知らないのだが、小説を書くこともたぶん同じなんじゃないかな。あっちは特に、長編を書くとなったら10〜万文字の文章量を書かなければならない。それだけの分量の文章を意味の通ったものとして制御するのは、小説の書き方本を読んだって身につくもんじゃないのだ。だからこそ書き続けた人間だけがそうした文章の筋力を身につけ、長い文章を次第に制御できるようになっていくのである。