基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

ユリ熊嵐1話

幾原監督の輪るピングドラム以来のTVシリーズアニメ。なんだかんだいって三回ぐらい観た。

飽きないアニメだ。どの絵と構図もばっしりキマってて心地よい。台詞回しまで含めて気持ちが良い。印象的で何度も刷り込まれるフレーズはそれ自体が聞いていて良い気分になる。クマショック、透明な嵐、好きを諦めない。隠喩というんだか単に象徴といったほうがいいのかはよくわからないが多く含まれていて意味を確定させないところは相変わらずで良い。こういうのは「○○は○○の象徴である」とつい言ってしまいそうになるけれど、多義的な意味を内包させることこそが隠喩表現の価値なのだから意味を一義に確定するのはその価値を大きく減じることが多いように思う。もちろん、いろいろなケースが考えられるわけだけれども。

個人的には幾原監督の輪るピングドラムと明確な類似が認められるのは、輪るピングドラムの次・前に進んだことをやるという意思表示なのかなとも思う。輪るピングドラムは根源的かつ極度に抽象化されたアニメだったけれども、しかしだからこそ我々の現実に存在する様々な枷に対向するものではない(アニメ・物語は別に現実に存在する枷に対向する為のツールではないという大前提の上の話で、単に物語で何を描くのかという話)。

もちろんそうした意味では隠喩だか象徴だかを多用するスタイルも同じ枷を抱えているわけだけれども。多義的な意味を内包するが故に我々はそこから何もかもを読み込み・納得することができるともいえる。逆にいえばその多義的な解釈は何一つ確定をもたらさないということでもある。本作はそういう意味ではぴんぐどらむと比べればもっと即物的な・我々の生活の実感の近いところにシチュエーションの配置的には既に寄せられていると思う。そしてそれは世界観構築、状況構築のあとにくる演出面でもよせられていくのか、というのは気になるところだ。

わざわざ個人的にはなどと銘打ったのは(意見など断らなくともすべて個人的なものだ)まだこういう考えを他人を納得させられるとは思わないからだけども。なんとなく自分ではこう思っている、予感がある、というレベルの話だ。

話は変わるけれど僕の友人にはけっこう「村上春樹がぜんぜんダメ、意味がわかんない」という人がいて、そういう人達はみんなすごく現実的で優秀な人達なんだよね。物凄い大企業に勤めてばりばり仕事してたり会社を経営していたり。現実的な数字とロジックを追って思考を組み立てていく絶対的現実主義者という点で共通していて、もちろんすべてではないけれども村上春樹がダメ、読めないという人の共通項として面白いなと思っていた。そして当然かもしれないけれど、そういう人達は幾原監督のアニメなんかも受け入れられないようだ。村上春樹なり幾原監督なりのような表現を楽しむのは、それはそれで一つの能力(愚鈍さともいえる)が必要なのかもしれないなと思う出来事である。

わからないという感想

別に物語は数学の問題集というわけではないのだから「わかる」必要なんかないのだが、まあこの手の感想が多く出る作品ではある。そういう話題になったときに「物語は数学の問題集ではないんですよ」といって反論するのはたぶん無意味なんだろうなという仮説がある。ようは面白く感じなく、その意見について理屈をつけようと考えた時に「とにかく、わからん」というのは「面白くない理由」として妥当なものに思えるのだ。仮につまらなかったとしても、話が物凄く単純なヒーロー物だったりしたときは「わからない」とは言わずに別の言葉を考えるだろう。だから「わからない」という人に対して解説を与えたり、あるいはわからなくてもいいのだと言っても、わかったからといって面白くなるわけではないのだから、無意味なのではないかと思う。

私はスキを諦めない

スキを諦めないというフレーズがなかなか面白い。いろいろな意味が考えられるからだ。たとえば「社会的な圧力としてスキでいることそれ自体が枷になる・悪とされる風潮があることに対して諦めない」。これはまあ作中表現からするとわかりやすい考えのひとつか。我々のいる現実社会において同性愛は受け入れられはじめてはいるものの、それでもまだおおっぴらにできるほど認められているというわけではない。あの世界百合ばっかだからそういう意味ではどのような価値観があるのかはわからないけれど。

百合がどうとかに関わらず、そうした社会的な風潮・圧力・ルールにたいしてどのように我々は対抗し自分の気持ちを貫き通すのか・通せるのかというのは主題としても面白いだろう。熊はそういう意味ではルールの破壊者であるかのように登場する。百合を隠さないし断絶の壁を超えて人間社会に潜入し秩序を破壊せんと試みている。じゃあ熊は絶対的なルールの上位者であるかといえばそういうわけでもなく熊もまた自分たちの組織内でルールに縛り付けられている。がうがう。

別の意味としてはスキであるという気持ちも絶対ではないというところか。むかしはスキだったものがいつのまにかどうでもいいものに変わっていくことなんていくらでもある。そんなことは当たり前の話だがそれでなお「スキを諦めない」というのはスキであるという本来誰にも強制されるものではない衝動それ自体が目的になってしまうことだからこの路線だと意味がよくわからないかな。あとは単純に熊を驚異として捉えた時に喰われると死んでしまうということもあるか。

映像について

映像的に緩急のある部分がスキだな。ほのぼのとした少女の日常を描いたかとおもいきや突然紅羽が「大切な人はこの手で守る」といってその手段が完全に銃である、武装しているという。あと冒頭の警報が鳴り響き真剣な顔をした女の子が警報の垂れ幕を下げるところとか最高で何度もみた。なんというか明確に「おらあ、俺のアニメがこっからはじまるぞお!!」という強い異質さの開幕編だからかな。普通そうな女の子たちがなんかヘンテコな会話をかわしていて、そして突然「熊が出たぞー!」「クマショック!」⇒真剣な顔をした女の子が警報の垂れ幕を出す! っていう。異常な事態が起こっているんだけれどもあの世界の中では割合真剣な事態なのだ、それに俺はこういう物語をやるぞっていう強い宣言の感じられる良い始まりだと思う。

女の子の力強さ

幾原アニメをみていて僕がずいぶんとスキなのは女の子の力強さだったりする。ラノベ的な「なんだかわからんがとにかく戦って強い女の子」というのとはまた違う強さがあるのがスキだ。まあその要因のひとつはどれだけ物語に恋愛が関わってくるのか、恋愛をどのように捉えるのかという部分が大きいのだけれども。たとえば「戦うと物凄く強い女の子」はいっぱいいるけれど、たいていは恋愛的な観点から読んで・見てみるとアホみたいな主人公にころっとストーリー上惚れさせられてしまっている。腕っ節などの問題ではなく精神的依存状態にさせられてしまうのはやはり「弱い」書き方だろうと思う。氾濫してるからことさら取り上げて文句をいうこともないけれど、その辺の処理をちゃんとやっているとやっぱりそれだけ好みには近くなる。

輪るピングドラムだと陽毬はどうしても都合上病弱系になってしまったけれど荻野目 苹果、時籠 ゆり、夏芽 真砂子とまったく違う三人の女性の力強さを見事に書ききってみせたと思う。最後しょーまの手を繋ぎ直した苹果の力強さ、最後の最後で踏みとどまったゆりの粘り強さ、最後の最後で覚悟をキメて背中で語ってみせた真砂子。そしてもちろん陽毬も精神的に屈服したわけではない。

ユリ熊嵐の女性陣もみんな覚悟がキマってる系女子達でたいへんよろしいです。明確な目的意識がある人間。アッパーで暗い部分をまったく見せない薬でもキマってるかのような人間。もちろんこうした力強さはさまざまな角度から揺さぶりをかけられていくことになるのだろうけれども、またどのような描き方をしてくれるものかたいへん楽しみですね。

1話だけであんまり先を予測するもんでもないからいくつかのキーワードをすておいてこのへんでやめておくけど良いアニメになりそうだなあ。はたしてどこまでいってくれるものだろうか。