基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

文章力についての個人的な考え

この人は文章力がある、自分にはこの程度の文章力があるというのを説明するのはなかなかむずかしい。

文章力とは何もダンベルをかつぐようにして客観的に証明されるものではないからだし、人それぞれ「文章力」といって思い浮かべるものも違うだろう。なのでこれは本当の意味で個人的な文章力についての考えなのだが、これを僕は「望む効果を達成する力」程度の意味で考えていることが多い。文章とはいってもその効果が発揮される場所はそれぞれである。ラジオのお便りで読まれたいのか、特定の一人の人間の心を強く揺さぶりたいのか。はたまたブログで本について書くときに、それが大勢の人間に伝わりますようにでもいい。

文章というのは情報伝達の為の手段なので基本的にそれが出現する時には何らかの達成目標が含まれているというのが普通だろう。いや、個人的な日記だってあると反論されるかもしれないが、それだって自分が読むことを想定するから変りはない。未来において自分が読むことも、誰も読むことを想定しない場合もありえるが、それだって「書いているその瞬間は自分が読んでいる」のだから。

むかし村上春樹さんのエッセイで、高級なレストランで不愉快な思いをしたことを伝える手紙を書いたけれど結局出さなかった。それはいまだにとってあると書かれていて、その手紙が実際にエッセイに収録されているのだが、それがまた見事な出来だった。普段のそのお店には充分満足していることを告げ、不快な思いをしたその時は自分にとって大切な客人を連れており、この店を信頼してきたのだと。相手を讃えつつ、自分の事情も説明しながら非難をねりこんでいくような文章で思わずまるで無関係なのに謝りたくなったものだ。

そのとき「これこそが文章力だよなあ」と思った。明確にそれは相手へちお反省を促させる文章だったし、あれを読んだ人間は当事者に近ければ近いほどえぐり込みに近い状態で謝意を引きずり出されるだろうと。ある意味ではそれは言葉の暴力といえるかもしれない。そういうことを僕はよく実感するようになった。というのもそうした定義でいえば僕もまた、書き始めた当時よりは確実に文章力が上がっているように思われるからである。僕は自分で自分の文章が「うまい」とは思っていない。ごくごく客観的に見たときに、たいして魅力もない平凡な文章だと思う。それはまあ残念といえば残念である。

しかしこと文章を書く、情報を伝達することで目的を達成するための力というのはこれが確実についているという実感がある。たとえばブログに書く以外にも僕はたくさんの文章を書く。仕事でメールを書くし、ラジオにも投稿するし、今だったら村上春樹さんの質問サイトができているからそこにもいくつか質問を投稿したりしている。これは本当にひどいと思った商品についてはブログで書かずに、Amazonでその賞品を買おうと思っている人への警告としての文章を書いたりもする。小説家になろうというサイトで小説を連載していたりもしている。様々な目的を持った文章を書いている。

そういう様々な目的を持った文章を書いている時に、「こういう目的を達成するためにはこれこれこういうふうに引きつけて、こういうふうに展開させて、信頼を得るために誠実な態度をみせて……」とかいろいろな場面によっての戦術が思い浮かんでくる。戦術一つ一つはどうでもいいようなことだけれども、それが積み重なると明らかに他者を引き離す力を伴っているように思う。ラジオで読まれたいと思えば、条件さえあえばまず達成できるし、村上春樹さんの質問サイトへ寄せた質問も、返信がくるだろうという確信に近いものがある。

文体というのはひどく個人的なもので、たとえば村上春樹「っぽく」は書けたとしても村上春樹の文体をコピーできるわけではない。ダーウィンの言ったことは残ったが、ダーウィンの文体は残らなかった。文体というのはそういうものである。しかし目的を達成するための文章力という部分については、僕は訓練次第でなんとかなる部分だと思っている。そういう話。