基本ライトノベル

ライトノベルについて書くブログだったはずだけど日記のブログだよ

1月31日 そこに愛はないのか

だらだらした一日だ。

なんとなく絵を描きたい機運が高まっているが、しかしびっくりするぐらい描くためのものがない。まずスケッチ帳どころかコピー用紙が存在しないし、ペンもボールペンしか持っていない。パソコンで書こうにも当然ながらペンタブレット的ななにかあれなものが存在しているわけではない。まずコピー用紙とボールペン以外の(別にボールペンでもいいのだが)何か書ける鉛筆的なものが必要だがわざわざそれを買うほど絵が描きたいわけでもない。

そして僕はこれまでろくに絵なんて描いたことがなくとんでもなくドヘタクソなのである。いまさら絵を練習する必要なんてあるのか──とも思うが、でも今からやって10年続けたらそこそこのものになるだろうとも思うわけである。別に漫画家になりたいわけでもイラストレーターになりたいわけでもないのだから、そこそこでいいだろう。というわけで明日は最低限の道具を揃えるところからはじめようかしらん。

一度「もし創作ロボが絵なり物語なりの凄いクォリティのものを自動生成できるようになったら」ということを考えたことがある。ようは、1秒間に1000でも2000でもあらゆるジャンルの傑作が生み出されるのであれば我々は人間が書いた物語なんか読むだろうかと思ったのだ。最近では星新一のショートショートを読み込んでごくごく短い星新一っぽいショートショートを出力させるシステムもある。小松左京の全作品テキストデータが提供されたニュースも記憶にあたらしい。
www.nikkei.com
wired.jp
結論から言えば、それも読むだろうし、人間が書いたものも読むだろうと思う。車があっても人間が100メートル走で競争するのを見て、カーレースはカーレースとして楽しむように、ある種の「ジャンル違い」のようなすみ分けがなされるのではなかろうか。ただ、車と100メートル走のたとえと違うのは、カーレースはカーレースで人間がその能力の限りを(違う方法ではあれど)尽くすゲームという部分では100メートル走と違いはないということだ。

人工知能小説の場合もある意味ではエンジニアが能力の限りを尽くした結果といえなくもないが、Deeplearningなどではもはやそういう次元の話でもない。勝手にがんばってるんだから。もう少し適切なたとえがあるとしたら、システムとシステムが囲碁なり将棋なりで戦っているさまを観戦して人間は楽しめるのかという問いかけのほうが近いだろうか。これも、楽しむ人間はいるだろうと思うが、その数は人間vs人間のものよりずっと少ないだろう。

結局、人間は人間に感動していることが多いと思う。それでは人間は物語を読む時に「物語に感動している」のか? はたまた、「人間がその物語を創ることができた」という「人間の能力」に感動しているのか? もちろん「人間の能力」に感動していないわけがない。すさまじい作品を観た/読んだ時に、自然にその創作者への尊敬の念が沸き起こってくる。だから物語には「人間」が絶対に必要なのかといえば──どうなるんだろうね、って感じだ。

ノンフィクション的な面ではこの世界における真実に近い部分が人工知能によってガンガン明かされていくんだったら、それは普通に「その事実自体」に感動するとは思う。その差はなんなのか……はまた別の機会にでも考えてみるか。